7月22日(日)「安 息 の 神」説教要旨
創世記2:1-3 マルコ2:23-28

  これまでキリスト教会では、創造の中心目標は、6日目、つまり人間の創造だと思っていました。そのためすべてのことは人間中心で、今日見るエコロジー、自然破壊の問題が起こりました。
  しかし、モルトマンという神学者は、創造の目標は、7日目安息の日にあると言っています。安息は、7日目ごと、また7年毎、そして7×7=49年毎に安息年がきます。その時、人びとは、畠を休養させます、また借金を棒引きにし貧しい者を助けます。奴隷を解放します。つまり安息日は、解放、休養、平安、和解の日だったのです。
  この安息日について創世記には、「こうして天と地とその万象が完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第7日を休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された」とあります。つまり、安息日は、完成、休養、祝福、聖別という4つのことが行われるのです。

  まず完成です。「すべてが完成した」には、二つの意味があります。というのは、今も世界が続いて動いているからです。その意味では創造は継続しています。しかし、霊的、信仰的意味では、完成しているのです。
  パウロ・チョン・ヨンギという韓国の牧師さんが、ある心配性の信者に言いました。「人間が造られる前、すべてのものが造られていました。植物や動物が造られる時、人間はその時、いましたか?このように、あなたが生まれる時、すべてが用意されているのです。あなたは、その用意されている中で走ればよいのです」と。その意味ですべてが完成しているのです。完成の中で、継続しているのですし、また継続している中で完成しているのです。完成していることを忘れると、心配、思い煩いがどっと入ってくるでしょう。日曜日毎に、
  私たちはこの神のこの完成を味あうのです。それは「大丈夫だ」、神の「しかり、イエース」です。しかし、まだ継続しています。そこであなたのなすべきことがあります。それを忘れてはなりません。しかし、あわてて走るのでなく、安心して歩むのです。完成の中を歩むのです。

  そこで私たちのなすべきことは、「休養」と「祝福」です。戦争中「予科練の歌」というのがありました。「月月火水木金金」というのです。つまり、土、日がないのです。働き人間は、神の休養を知りません。安息日に休まなくてはなりません。しかし、「休養」とは、からだと精神とを休ませるだけではありません。そこで、安息を与えてくださる神を仰がねばなりません。そうでないとレジャー産業の奴隷になります。神を仰ぐことは、あらゆる心配、思い煩いからの解放です。「何事も思い煩うな」との御声を聞くのです。それが、この日の休養の意味です。

  この「休養」は、私たちのなすべき消極面ですが、積極面があります。それが「祝福」です。祝福という言葉は、日本語でも、あまり日常生活では使いません。結婚式があると、使います。「新郎新婦を祝福する」と言います。祝福とは、完成したすばらしい絵を見て、「美しい絵だ」と言うことに似ています。そこには利害得失の勘定は入りません。人格対人格の暖かい交わりが全面に出てきます。評価し、その幸せを祈る祈りもあります。それが祝福です。安息日は、お互いを祝福しあう日です。

  最後は聖別です。これには「きよめる」面と「別にとっておく」面とがあります。私たちは聖徒と言いますが、それは聖人君子のことでしょうか。そうでなく、神が別にとっておかれたものです。つまり「聖人君子」とは、その人の資質のことです。しかし、「聖徒」は、その人の立派な資質ではなく、神さまとの関係です。小さなつまらぬ者でも、神が選び、取っておくのです。何のために、世界に神の愛、キリストの恵みを広めるためにです。

  「聖別」とは、その人に特権を与えることではなく、他者との関係を与えるためにあるのです。こうして安息とは、神の4つの業に従うことです。それは神の永遠の安息、神の国の到来の時に完成します。しかし、今この地上で、この神の国の安息を、私たちは7日目毎に繰り返すのです。今日がその日です。ここで聞く第一のメッセージは、「完成」、神の「イエース」です、「休養」です。何もしないと共に、「祝福」するのです。そしてあなたは「聖別」されるのです。あなたの偉さではありません。あなたのつたなさが用いられるのです。それが安息日の意味です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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