|
|
|
|
|
|
|
|
11月18日(日)「アブラハムとイサク」説教要旨
創世記22:1-14 ヘブル11:17-19
 「アブラハムは、すべての人に勝って偉大であった。無力を強さとする力によって偉大であった。愚かさをその秘密とすること知恵において偉大であった。狂気の姿をした希望によって偉大であった」。「信仰によってアブラハムは父祖の地をさまよい出て、約束の地にいたって異邦人となった。彼は地上の知恵を後に残し、信仰をたずさえて行った。もし信仰によるのでなかったなら、さまよい出ることをしなかったであろう。信仰によって彼は約束の地にいたって異邦人となった」(キルケゴール)。
 今、ここで語られているのは、「信仰」にほかなりません。それ以外の何ものでもありません。信仰は、利害関心をもちません、人情や義理で動きません。愛国心、義務でも動きません。それはただ「神の御旨」のみによって動きます。
 アブラハムを動かしたのは、信仰です。アブラハムは神の召しを受けました。その愛するひとり子を、神の祭壇に捧げなさいとの命令です。アブラハムは苦しんだでしょう。神の御旨には逆らってはいけない。しかし、年老いてやっと与えられた息子のイサクを捧げよとは、何とむごいことか。彼は従いました。この物語は、どのように考えたらよいのでしょうか。
- 1 当時まわりの異教で行われた「人身御供」の廃止と考える考え方もできます。しかし、それならただ歴史的背景を示すだけで、信仰の物語にはなりません。
- 2 これは殺人です、いや殺人未遂です。しかし、決して現代の親の子殺しと同じではありません。現代の子殺しには神も信仰も出てきません。ただ親の身勝手と狂気しかありません。
- 3 では事故で子を失った親はどうでしょう。その悲しみは絶大です。しかし、それは偶然のなせる業です。アブラハムの場合、神の御旨があり、アブラハム自身信仰をもって答えているのです。全く違います。
- 4 新大久保の事件、韓国の人が線路に落ちた人を救おうとして、自ら死んだこと。また使命のための献身、非常に近いものがあるが、それは愛の行為、助ける目的がある。しかし、アブラハムには、何かの目的はない、ただ信仰のみです。
- 5 クリスマス・ツリーの物語はどうでしょう。人身御供の慣習のあるゲルマンの村で、酋長の娘が人身御供にあたり、殺されそうになったとき、キリスト教の宣教師が、キリストが十字架にかかられたのだから、その娘を殺す必要はないと言い、救われた話。非常に近いが、このアブラハムの場合のような迫真力はありません。それは神の命ではなく、当時のゲルマンの人身御供の習慣からくるから、まわりあわせが悪かっただけ。しかし、キリストの十字架に結びつく点は、非常に近い。
- 6 これは試みだ、神さまはアブラハムを試験したのだ。もしそうなら、この物語の迫真力は弱くなるでしょう。それは終結が分かっている推理小説みたいなものです。おしまいが分かっているなら、試練でも何でもなく遊びにすぎないでしょう。信仰は、敬虔な遊びではありません。真剣勝負です、勝か負けるか分からないのです。
 アブラハムの信仰は、神と信仰の間に、何の透き間もない、別な目的らしいものがありません。信仰という名で「精神の安定」、「家族の平和」、「国民の倫理」など、あらゆる目的が考えられます。
 確かにそれらもあるでしょう。しかし、それは信仰の付属物で、信仰の目的ではありません。信仰の目的は、ただ一つ「神の御旨」のみです。それではあまりに厳しくて、私たちには耐えられない、アブラハムは信仰の英雄だろう。否、彼は妻を妹と偽るような、あたりまえの人間です(創世記12:10以下)。しかし、そのあたりまえの人間が、今、「神の御旨」という一言で、従った、信仰のゆえに従ったのです。この厳しい信仰の姿には、もう一つの側面があります。
 イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
 アブラハムは言った、「神自ら燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
 「神が備えたもう」、これが厳しさと一つになって、アブラハムの信仰を形成しています。いつ、どういう仕方か分かりません。しかし、「主が備えたもう」。もしこの後半がなければ、これはただの子殺しの物語になるでしょう。厳しさと神の用意、この二つが重なるところ、その時、これは十字架の予表となります。
 「神はそのひとり子を賜うほどに、世を愛された。これ彼を信じる者のひとりも滅びずして永遠の命を受けんためなり」。そこには、アブラハムのその子イサクを捧げる以上の苦悩がありました。十字架、それは私たちの罪のための苦悩にほかなりません。アブラハムの物語は、十字架から振り返り見る時、初めてその深さが分かります。
|
|
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
|
|
Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church
All rights Reserved.
|
|