1月6日(日)「私に何ができるか」説教要旨
出エジプト4:10-17 マルコ9:14-29

   新しい年に誰でも計画を立てます。それは「こうしたい」で、英語で表すと I willです。しかし、それはできるでしょうか、すると I canとなります。私たちが一番多く問うのは、「できるだろうか」です。
   モーセは、神に召しを受けた時、
  「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」と断りました。
  しかし、神は言われます、「だれが人に口を授けたのか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。
  それでも気の弱いモーセは断りました。「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。私ではなくほかの人に、よく私たちもそう言いませんか。
  とうとう神さまは怒ってしまいました。何と不信仰なのだ。どうして神の備えたもうものを信じられないのだ。「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている」。神は、私たちのために助け手を用意しておられるのです。
  確かにほかの人を神は用意しておられました。しかし、それはあなたに代わってではありません。「あなたと共に」です。あなたは自分の欠けを問題にしているのか、人間は一人で完全という訳には行きません。それを助ける人が必要です。アロンは、モーセの口べたを補う雄弁家です。このように神の僕は、パウロがテモテとたずさえたように、二人で立つものです。
  「私ができるか」という時、「私」が主語でした。モーセが召しを断ったのも、「私は」でした。しかし、神は「誰が口を授けたか」と、神が授けたものを中心にします。問題はI canの I(私)ではないでしょうか。信仰とは、神を信じることです。「あなたの神は小さすぎます」。私ができるか、できないかではなく、神がさせてくださるのです。

   もう一つのマルコの物語を見てください。山上の変貌のすばらしさと対比して、山の下には苦悩がありました。けれども山の下にはただ苦悩があるだけでなく、そこにはまた「弟子たちの無能」もありました。
  これは私たちの地上にある姿です。私たちは苦悩になやむだけでなく、また自分の無能にも悩むのです。しかし、そこにはただ無能力だけがあるのでしょうか。イエスは答えて言います、「おお、何という不信仰な時代でしょう。わたしは、いつまであなたがたといっしょにいるでしょう。いつまで、あなたがたを我慢したらよいのでしょう。その子をわたしのところに連れてきなさい」。
  イエスはそれは「不信仰」と言います。私たちはいつも自分の無能力をかこちます。そしてもっと力があったらよいのにと思います。けれども、それを自分の不信仰に帰しません。わたしたちが無能力ととらえるところを、イエスは不信仰ととらえます。そしてさらに後の方では、祈りの不足の問題としてとりあげました。そうだ祈りを忘れていたのだ。ということは神さまを、助ける神を忘れていたのだ。

   しかし、ここで父親の態度を見ましょう。
  「そこで人びとは、その子をみもとに連れてきました。霊はイエスを見るやただちに、その子をひきつけさせたので、その子は地面に倒れ、泡をふいてころげまわりました。父親は言います「何かできますなら、どうかわたしたちをあわれんで、助けてください」。イエスは答えました、「できればと言うのですか。信ずる者には、すべてのことができます」。その子の父親はただちに叫んで言いました、「信じます、不信仰なわたしをお助けください」。
  この父親には、子供の病気という苦しみのほかに、折角信頼して弟子たちにお願いしたのに、できなかったという嘆き苦しみがありました。またこの父親にも不信仰がありました。けれども、父親は弟子たちにまさります。というのは、その不信仰のところで、信じようとしたからです。「信じます、不信仰なわたしをお助けください」という、この声は、まさに真の信仰を表していないでしょうか。
  ここには祈りがあります。不信仰なわたしを、助けてくださいという、切なるうめきにも似た祈りがあります。ここでは自分の不信仰が祈りの対象になっています。誰が一体このように、自分の不信仰を祈りの対象にするでしょうか。自分の不信仰を棚にあげて、別な願い事に夢中になるのが祈りでしょうか。実はわたしたちはみな、この自分の不信仰をこそ祈らねばならないのです。 

   この父親のすばらしところは、ただ自分の不信仰を祈っただけでなく、その前に、「信じます」と言っていることです。 不信仰を祈りの対象にしながら、その前に「信じている」のです。これは不信仰の中の信仰です。
  「信じます」と言いつつ、「不信仰なわたしをお助けください」と祈ること、そこに不信仰の中の信仰、そして信仰の中の不信仰が明かにされます。
  そしてわたしたちの信仰は、そのような構造をもっているのではないでしょうか。不信仰と信仰とが同居しているのが、私たちの信仰です。
  しかし、忘れないでください。「主よ、信じます」、信仰が不信仰の先にあるのです。山の上の輝きがあるからこそ、この山の下の苦しみは耐えやすくなります。しかし、山の下の苦悩のゆえに、山の上の輝きはいっそう輝きを増します。イエスの復活のみからだには、十字架の傷痕がはっきりと見られました。不信仰の中に信仰が、そしてその信仰の中に不信仰が、それこそ、山の上と山の下です。それをつなぐのは、祈りです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.