1月13日(日)「うしろの神」説教要旨
出エジプト14:19-20

   こういう話を聞いたことあります。それはお母さんの前の姿、横の姿、うしろ姿です。前の姿というのは、子供に教えたり、さとしたり、叱ったりする姿です。前向きの姿は、いかようにも取り繕い、ごまかすこともできます。しかし、うしろ姿、お母さんが買い物に行くときの、うしろ姿はつくることも、変えることもできません。その人のふだんの行動、生きざまがそのまま現れるです。
   私たちはいつも、前を見て生きています。しかし、上を見ることはないでしょうか。動物は四つん這いになっているから、決して上を見上げることはできません。人間だけが、立って動くため、上を見上げることができます。それは神を仰ぐことを意味します。
   ベイントン宣教師は、大病になってベッドに休んでいた時、見舞の信徒に言いました、「神さまは、どうして私たちをこんな病気にするのでしょうか」、「それはね、時々、上を向くためですよ」。病気は、私たち前ばかり見ている人間に、上を(神を)見上げさせるためなのです。

   しかし、上を見ることはしても、「うしろ」はどうでしょうか。出エジプト14:19の記事に、
「この時、イスラエルの部隊の前に行く神の使いは、移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊との間に来たので、そこに雲とやみとがあり、夜もすがら、彼とこれと近づくことなく夜が過ぎた」。

   皆さん、神はただ前のみに、また上にのみいらしゃるのではありません。あなたのうしろにもいらしゃるのです。あなたの前にいらしゃる神は、またあなたのうしろをも守ってくださるのです。前は、常に見ているので、大丈夫ですが、うしろは、ついうっかりします。

   うしろは、自分でもどう繕うこともできないところです。そこを神ご自身が守ってくださるとはなんと幸いなことでしょう。
  ではどういう時に、神はうしろに来てくださるのでしょう。モーセとイスラエルの民が、前に紅海の水、うしろにエジプトの軍隊をひかえ、どうしようもなくなった時です。
  民が恐れて、、「荒野で死ぬよりも、エジプトびとに仕える方が、私たちにはよかったのです」とモーセにくってかかった時、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙していなさい」と言われたのです。ハバクク書に、
「わざわいなるかな、木に向かって、さめよと言い、物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ、これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀をきせたもので、その中にはいのちの息は少しもない。しかし、主はその聖なる宮にいます。全地はそのみ前に沈黙せよ」(2:19-20)。

  私たちは沈黙させられることがあります。病気もそのひとつです。死ぬほどのことに直面する場合もそうでしょう。また大失敗をして、どうしようもない時もあります。今、モーセとその民が直面したのはそのような、沈黙させられた時です。
  しかし、沈黙にも二通りあります。運命でそういう回り合わせになって、にっちもさっちも行かない時、それは「沈黙させられる」時、「ぐうの音も出ない」時です。巨大な力がのしかかってどうしようもない時です。大病、事業の失敗、決定的な離反の時です。
  けれども、もうひとつの沈黙があります。それは
「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙していなさい」
また
「主はその聖なる宮にいます。全地はそのみ前に沈黙せよ」
という命令を受けて、自ら沈黙する時です。この「沈黙せよ」は、神の命ですが、それは前の宿命のところで沈黙させられるのと、同時に起こるのです。イスラエルは、前に紅海の水、うしろにエジプトの軍隊、どうしようもなくなって、沈黙せざるをえない運命にあった時、積極的に、自分から、神の偉大な力、「私のうしろにきて守りたもう」、その偉大な力の前に沈黙するのです。それは祈りの沈黙です。信仰の沈黙です。私たちが沈黙させられる困窮の時、それはこの「偉大な沈黙せよ」に服する時なのです。

  
「L教授は、脳溢血のために、非常にゆっくりものを言わざるを得ない状態になった。ところが教授は、言葉が沈黙から音声へと達するのが困難になったことを損失とは感じていなかった。彼はこう言っていた、『以前にはものを言うことがたやすかった。言葉はあまりにも容易に出て来た。しかし、それは何か他の言葉から急速にとびだしてくるものであって、決して沈黙からゆっくり浮かび上がって来る言葉ではなかった。ところが今は病気のお陰で、一つの言葉が音声になれば、それはまるで一事件だ。一つの言葉をふたたび沈黙から取り出すことに成功すれば、それは一種の創造のようだ』。彼が健康であった時には、決して到達できなかったこと、つまり、沈黙からの言葉の発生を驚異的なものとして体験すること、そのことを病気のお陰でやっと成し遂げることができる次第だと彼は言っていた。かくしてL教授は、彼の病気を克服した。しかも単に克服しただけではない、・・・彼は病気によって、以前の彼以上のものになったのである」(ピカート『沈黙の世界』)。


   彼は病気を通して、沈黙の世界、うしろの神を知ったのです。神はあなたのうしろを守りたもう。このことこそ、私たちの忘れている信仰の姿ではありませんか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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