1月20日(日)「主 の 日 」説教要旨
出エジプト14:19-20

  「こうして天と地と、その万象が完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日にやすまれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての業を終って休まれたからである」(創世記2:1-3)。

    創造の目標は、決して人間の創造ではなく、安息日、第七日にあります。この日に、創造が完成し、休息し、神はその日を祝福して、聖別されました。ここに大切なことが四つあります。1 休息 2 聖別 3 祝福 4 完成です。
  この日は休息の日ですから「安息日」と呼ばれます。「安息する、休息する」と言うと、今日では、皆レジャーを考えます。疲れた体を休める。それは確かに大切なことです。しかし、それだけでよいでしょうか。正月や夏休みに海外に行って、疲れて帰ってきた人が多くいるのです。その疲れ安めに温泉にゆくと言う矛盾も出てきます。
  では何が欠けているのでしょう。休日はホリデイと言います。 ホリデイとは、ホーリー・デイで、「聖なる日」です。休息にも自然的安息と信仰的安息があるのです。もちろん自然的安息も大切です。しかし、自然的なものはすべて欠陥があります。

   そこで一般恩寵と特殊恩寵の考えが大事です。自然的なものは科学も医学も結婚も、一般恩寵です。信仰者だけがする事ではありません。それが一般恩寵です。
  しかし、一般恩寵は人間の罪による欠陥があります。それゆえ一般恩寵の世界は、キリストの特殊恩寵によってきよめられねばなりません。特殊恩寵の信仰的安息とは、アウグスチヌスが『告白録』の中で、「主よ、あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と書いていることです。これが信仰的安息であります。
  自然的安息だけでは、心の平安がありません。新婚旅行へ行って、喧嘩ばかりして、成田空港で離婚した話もあります。今日の休息は、レジャー産業の奴隷ではないでしょうか。そこに自然的安息の欠陥があります。そこで聖なる日が必要です。神はこの日を「聖別」したのです。

   もう一つは「祝福」です。「幸福」という言葉は、よく使います。しかし、いささか自己中心でエゴイスティックな響きは否めません。けれども「祝福」とは、他者の幸福を祈り求めるのです。
  十戒の安息日の規定は言います「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたのうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない」(申命記5:12-15)。
  安息日は、神を仰ぐと共に、隣人、外国人を思うのです。 安息日は自分のためにある、しかし、神のためにある、そして隣人、外国人のためにあることを忘れてはなりません。封建的時代には、休みなく働かされました。しかし、しもべも聖なる安息にあずかれるのです。

   最後に「完成」です。「主の日」には1.日曜日 2.最後の完成の日(神の国)と二つの意味があります。それは日曜日ごとに、完成を味わっているのです。
  パウロが、「わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」「ただ捕らえようとして追い求めている。そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」と言っているように、私たちは、常にこの週も、聖日ごとに、キリストの完成を祝い、その「すでに」にあずかっているのです。
  「いまだ」という時、私たちは不安です。まだ来ない、いまだに出来ない。それはイライラさせます。しかし、そうではなく、「私たちはその達し得たところにしたがって歩むべきである」。日曜日ごとに完成を味わい、「すでに」をいただいて歩むのです。「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足道をば示したまえ」(賛美歌288番)。それが「主の日」の意味です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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