1月27日(日)「隣人という問い」説教要旨
ルカ10:25-37

  「よきサマリア人のたとえ」は有名で、病院などに「サマリア診療所」というのをよく見ます。それはヒューマニズムの愛をモットーとする病院なのでしょう。
  しかし、そう単純にはゆきません。なぜなら、「愛すれば愛するほど、罪人になる」からです。私たちは、愛していない、あかの他人に怒ることはあまりありません。しかし、愛すれば愛するほど、裏切られた憎しみは大きく、「可愛さあまって、憎さ百倍」です。つまり愛と罪とは背中合わせなのです。傍観者なら怒りません。
  傍観者は、ここに出てくる祭司とレビ人です。彼らは町中だったら愛に満ちた人でしょう。全く誰にも知られない場所、そこでは何をしてもよい、何をしても誰にも分からない、そこでこそ、真実が問われます。それは宗教の空間、隣人愛の空間です。苦しみに出会う時、近づいてゆく愛もあります。しかし、苦しみを見て離れてゆく愛もあります。人間の苦悩は、愛を試します。
  あなたの愛は、単なる言葉に過ぎなかったのか、それともこの苦悩に近づき、そこで永遠なるお方と出会うのか、どちらですか。見ぬふりした二人の宗教家は、神の奉仕者であることをやめたのです。「第二もこれと同様です。自分自身を愛すると同じように、あなたの隣人を愛しなさい」(マタイ22:39)。 第一は神への愛。第一と第二は「同様」でつながっています。誰もいない場所、誰も見ていない所、そこで愛が問われるのです。

  日本では良心は回りの環境できまるようです。西瓜泥棒しようとして、誰か見ていたら知らせろと子供を見張りに立てたら、「お母さんお月様が見ているよ」と言われました。日本人の倫理は「恥の倫理」で、見えざる神への罪の意識がありません。
  「隣人とは誰か」、愛は一つの問いです。宗教とは、その誰も見ていない、誰にも金輪際知られることのないところで、「問われる事態」です。「誰から」、神からです。
  しかし、人間みな兄弟、隣人なら、体がいくつあってもたりないでしょう。「私の隣人とは誰ですか」。愛人、恋人、兄弟、私の気に入っている人。それなら愛とは自己愛(エゴイズム)の別名ではないでしょうか。敵こそ愛の対象、憎んであまりある奴こそ、愛に値するのです(ボンフェファー)。
  「兄弟にのみ挨拶しても、何のとりえがあるか。異邦人でもそうするではないか」とイエスは言われました。そこで初めて、このたとえが分かります。愛は、サマリア人−ユダヤ人、民族の違い、性別、身分、教養、国、宗教の違いを越えています。しかし、私の気に入っている人でも、時に敵になることがあります。その時、気に入っている人は、「隣人」となったのです。愛したい人から(自然的愛、一般恩寵)愛さなくてはならない人(信仰的愛、特殊恩寵)に変わったのです。  

  愛には「出会い」と「召し」があります。世界中の人をすべて愛することはできません。そこに「出会い」があります。しかし、出会った人すべてを愛するのでもありません。あなたの「召し」があります。そこでは、もはや民族の違い、性格や立場の違い、いや宗教の違いさえ問題になりません。ただこの一人の苦悩と、そこに立たれる十字架の苦悩の主と、その愛のみが問題であります。そこでは、この苦しみを共に苦しむ共苦・共感、共同責任だけが大切なのです。それが真の宗教が求める「永遠の生命」に通じるのであります。  

  最後にイエスは問いました、「この三人のうち、一体誰が、強盗に会った人の隣人になったと思いますか」。 律法学者は言います「その人に親切にしてあげた人です」。イエスは彼に言います「あなたも行って同じように行いなさい」。
  さてここでは隣人の定義の変革ではなく、隣人関係の変革が語られているのです。律法学者は「私の隣人とは誰ですか」と聞いた、そして愛する対象を、自分の同胞ユダヤ人に限定しようとしました。しかし、愛する対象を自分の好みによって限定するなら、愛することはいともやさしいことです。それは自分を変えないで、愛する対象を変えるだけですみます。
  しかし、大切なことは、隣人の定義を変えることではなく、隣人関係の変革にほかなりません。それはあなた自身を根本的に変えることにつながります。イエスは、この問いを全く逆にして、あなたを愛を施す側ではなく、傷つき倒れ、愛を受けることを必要とする側におかれたのです。
  私たちはいつの間にか、自分を愛を施し社会事業をする側に身をおきます。その結果、自分を高くして、人を見下げます。けれども今たとえは、あなたを苦しむ側において、誰があなたを愛したかと聞きます。自分自身苦しむ側に身をおかないで、苦しむ者の痛みは分かりません。愛とは、ほかでもなく、この苦しみを共にすることです。

  「そんなことができるか」と、あなたは問うでしょう。イエスは「行いなさい」と言います、それは現実の中で起こるのです。「信じる者には、何でもできる」と。
  もちろん、できない場合もありますが、この人は、他の人の助けを、宿屋の主人の助けを借りました。どこにも宿屋の主人はいます。私たちに、隣人を愛することができるのは、同時に他者の助けを借りてです。私たちはそのような助け手を必要としています。そしてそれは「神が備えたもう」のです。 つまり、助け手を備えたもう神を信じる信仰によって可能なのです。
  その助け手も、実践の中から生み出されてきます。信ぜよ、神を信ぜよ。あなたより大きい、かつ強い神を信ぜよ。この信仰の下に愛は可能なのです。
  「私の隣人とは、誰か」、神があなたに与えたもう人です。それは出会いにおいて、しかし、出会う者すべてではありません。そこには召しがあります。恋愛にも、出会いがあります。そして召しもあります。そしてそこにはつまずきもあります。しかし、乗り越える力も神から来ます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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