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2月3日(日)「 同一性と差異性(同じと違い)」説教要旨
Tコリント12:4-27
 「同一性と差異性」とは、現代哲学で言われることですが、別に難しいことではなく、「同じと違い」です。
 私とあなたは、同じ「日本人」、これは同一性です。しかし、ヨーロッパの人とは違っています。「差異性」です。「類は友を呼ぶ」と言い、似た者は似た者と一緒になります。日本人は同じようになる同一性を好む、ということは、異質なものを排除することで、「よそ者」という言葉もあります。
 しかし、日本人の中にも、同一性を嫌う人はいて、自分のアイデンティティーを主張する個性豊かな人、悪く言えば「変わり者」がいます。しかし、その変わり者が、新しい世界をつくります。聖書は、このことをどう見ているのでしょうか。
 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである」(Tコリント12:4以下)。
 ここには「霊の賜物は種々ある」と、まず差異性をあげています。「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言・・・」。「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も」と、人種、身分の違いもあげています。人間が、最初に気がつくのは、性の区別です。男と女、次に日本人、民族、あるいは関西、関東の違い、そして性格の相違です。
 私たちには、賜物があります。何も与えられていない人がいるでしょうか。「私なんか駄目だ」と言いませんか。とんでもありません。「すべてにおいてすべてを働かせる神は同じです。御霊の現れが各々に与えられているのは、みんなの益のためです」。 「すべて」です、あなたも入ります。賜物に違いはあります。筋ジストロフィーの人が、「私の病気は、神さまからの賜物です」と言いました。その時、彼はその病気を克服しています。彼らは、詩を作り、映画を作り、ついに自立ホームを完成しました。モルトマンは、男であり女であることも賜物であると言っています。
 これらの賜物は、からだを形成しています。この「互い」がなくなれば、差異性は自己主張、エゴになります。
 「からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。またもし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない」。
 パウロは、人間のからだを例にひいて、正しい共同体の在り方を説明しています。人間は「多と一」からなりたっています。無数にある人類も、キリストをかしらとする有機的なつながりで、互いはそれぞれ違った機能を持ちながら、一つの目標に召されているのです。それだけではなく、互いが互いを必要としており、一人だけではなりたたないのです。
 三位一体の神は、差異性と同一性の統一の模範です。それでこのキリストの教会は、全人類を一つに結ぶ、大切な役目を担っています。教会は全人類が一つにまとめられることの模範であり範型なのです。 現在エコロジーの問題でも、平和の問題でも、人類が互いに話し合い、ひとつにならなければ成り立ちません。しかし、相違があります。相違を越えた一体、これが真の姿にほかなりません。
 もし相違がなく、すべてが皆同じだったら、それこそ単調でおもしろくもないでしょう。あっちをみてもこっちをみても同じ顔、同じ性質、同じ考え、それでは、わたしたちは、「もう助けてくれ」と叫びだすでしょう。違いこそが恵みです。ちょうどコーラスで、高音部と低音部が調和して、美しいハーモニーが生まれるのと同じです。
 「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわりあうためなのである」。
 「弱く見える肢体がかえって必要なのです」。共同体で必要なのは、この弱さです。弱い部分をもたない共同体は病んでいます。またここで、「他よりも弱く見える肢体」とか、「他よりも見劣りがすると思えるところ」と注意深く表現しています。けっして「弱い」とか「見劣り」と断言していません。それはただ人間にとって、その愚かな心にそう映るだけなのです。神の目からはそう見えません。
 そのことは、またあなた自身にも言えることです。自分がいつも劣等感に悩む人は、それが自分にとってそう見えるだけだと言うことを忘れないようにしましょう。しかもあなたにとって見劣りがすると思えるところ、そこが神はかえって必要だと言い、そこを見よくするどころか、優遇さえしてくださるのです。「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、 もし一つの肢体が貴ばれるとほかの肢体もみな共に喜ぶ」というように、悩みを共にし、喜びを共にすること、それが愛にほかなりません。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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