2月10日(日)「摂理と自由」説教要旨
列王記下20:1-7 Uコリント3:12-17

  「運命と摂理」とよく言われます。運命はまた宿命とも言います。
  「命」は、
  • 1 いのち 
  • 2 「命じる」から教え 
  • 3 めぐりあわせ(天命) 
  • 4 名(命名する)
などの意味があります。
  字引には「古代人は、人の生きることや世の中のなりゆきは、天の神の命じるところと信じていたので、世の中の定め、運を意味し、ひいてはめぐりあわせを意味した。また名にも通じる」とあります。運命の「運」は「めぐる」、星が動いてもその軌道が変わらないと考えて、それを人の運命に模した。「宿命」は、人間が前世からの宿縁で決まっていると考える。いずれも決定論です。それでは人間の自由はありません。 それで運命宿命は、「だから仕方がない、あきらめる」が続きます。 
  では「摂理」とどう違うのでしょうか。字引には、「代わってとりさばく、すべおさめる。キリスト教で神が、人間のために、世の中がよくなるように導き治めること」とあります。ですから、「摂理だから仕方がない」とは言いません。「実にこれは神のご摂理だ。不思議な導きだ」と申します。奇跡的なすばらしいことを期待しています。
  運命と宿命の背後には、何か分からない暗いものがあります。しかし、摂理の背後には、愛の神がおられます。神は愛で、しかも自由な人格です。冷たい法則ではありません。
  列王記下20:1-7にはこうあります。
  「ヒゼキヤ王は病気になって死にかかっていた。預言者イザヤは彼のところに来て言った、
  『主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』」。
  そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、
  「ああ主よ、わたしが真実を真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す』」。

  皆さんは、神さまとはどういうものを連想しますか。絶対的なお方でしょうか。神のみ旨は金輪際変わらないのでしょうか。しかし、ヒゼキヤが祈ると、イザヤが、「あなたは死ぬ、生きながらえることはできない」と、主のみ旨を語ったのに、まだ中庭をでないうちに、神は、その決定を変えられた、それは祈りによってです。

  運命、宿命の「命」には、「命名する」というように「名前」の意味もあります。古代では「みこと」は、「すさのおのみこと」など人を意味します。一人一人の名が覚えられる。名の信仰です。
  神はひとりひとりでその意見を変えるのでしょうか。神の変わらない意志は、「愛」です。しかし、その時、その時の対応は変わります。神の愛は、自由の愛です。ですから、人間との対話が可能です。三位一体の神は対話する神です。つまり祈りは聞かれるのです。
  以下には、この神の自由が描かれています。「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Uコリント3:12-17)。

  このように自由な神はひとりひとりを、その名で覚えておられる。だから「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)。
  今日の法則の時代に、名の信仰が大切です。名とは、あなたは世界に一つしかないという意味です。自由も同じ、あなたは、何をすることもできる。しかし、主の霊のあるところに自由がある。命は、運命だけでなく、使命ということがあります。この神の自由に目覚めた者は、運命を使命に、宿命を命名に変えることができます。

  ある神学者は言っています。
  「わたしたちが自分で知っていると考えているよいもの、敬虔なもの、賢いものほど神をさえぎるものはありません。
  しかし、わたしたちがただこの神に聞く用意のある時には、神は力をたずさえて来りたまいます。現代社会の危急と不法も、神にとっては、瑣末のことです。
  イエスは、わたしたちが深いところに立っていればいるほど、進んで助けてくださいます。わたしたちが罪人であればあるほど、豊かにゆるされます。イエスは労する者、重荷を負う者をみもとに招き、御霊を愚かな者、無知な者に注がれます。疲れた者を、いやされます、またほの暗いともしびを消すことをなさいません。
  わたしたちは人間歴史の夜の中に深く立っています。わたしたちは行く手を二、三歩のところを照らす光をもっています。しかし、それらの光は夜を昼に変える力はありません。わたしたちが生きるこの時代は十分困難な時代でありますが、わたしたちはこのような困難な時代に、いかに神に感謝することを学ぶでしょう」。

  これこそ自由な神です。自由な神は、自由に助ける神です。しかし、その前進は、人間の決心や模倣の力ではなく、ただひとえに「霊なる主の働きによるのです」。奇跡の神、聖霊の神、自由な神であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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