2月17日(日)「信仰と迷信 」説教要旨
ヨハネ1:1-3、14 ピリピ2:6-8

  私は4、5歳の頃、祖母に連れられて、巣鴨の「とげぬき地蔵様」に行きました。祖母はいつも地蔵様を刷った小さな紙をガマグチに入れてもっていて、私がおなかが痛いと言うと、その紙を丸めて飲ませました。これは「迷信」でしょうか。それとも信仰でしょうか。
  信仰か迷信か区別する基準として、ここに三つ 
  • 1 信仰に対する知性の裏付け 
  • 2 人間性(ヒューマニティー)
  • 3 僕としての奉仕的愛

  をあげます。

  T ロゴス(信仰と知識)

  「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった」(ヨハネ1:1)。
  キリスト教信仰の根底にあるものはロゴス(言葉、知性)です。これはキリスト教が初めてギリシア思想と出会った瞬間です。
  しかし、ギリシアでは、ロゴスは哲学的に「理性」を意味していました。これはやがて西欧の理性、合理主義などの発展して行きますが、聖書では、ロゴス=言葉です。理性も含みますが、もっと広い意味の「知恵・知性」です。この言葉は対話的です。「共に」で結ばれています。一方的な言葉でなく、「聞きー語る」言葉です。キリスト教信仰の根底には、この人格的ロゴスがあります。これは「信仰と知識」の問題に関係してきます。

  一方仏教では、キリスト教のロゴスにあたる最高の真理は、ダルマ(法)です。しかし、ダルマはロゴスと違って、人格的ではありません。対話的ではありません。「形あるものは壊れ、生あるものは滅する」、「諸行は無常である」。これが法です。
  この「諸行無常」の法を自覚的に引き受けるのを、「悟り」と言います。
  前に金閣寺が火事で消失した時、ジャーナリストが来て、管長の山田無文師に「国宝が焼けて、本当に残念ですね」と聞くと、山田師は「国宝と申しましても、物質ですから」と答えたそうです。その話を聞いて、私は悟りの境地にいる人の言葉のすごさに敬服しました。しかし、私自身はこの「無」のすごさよりも、人格的な生ける神、愛なる父に祈ることの方に賭けました。

  では「信仰と知識」の関係はどうでしょう。知識を積み上げても、信仰には達しません。アンセルムスは「信ぜんがために、知らず、知らんがために、われ信ず」と申しました。そして「信じて後、知ろうとしない者は、怠け者とのそしりをまぬがれない」とも言いました。
  知識を積み上げても信仰になる訳ではありません。キリスト教知識を山ほど知っていても、それは信ずることにはならないのです。しかし、信じて後、知性が必要です。信仰は信頼であると共に、認識、神認識です。それはより深い自己認識でもあります。実存的知識と言ってもよいでしょう。
  ハイデルベルク信仰問答には、「まことの信仰とは何ですか」との問いに、「心からなる信頼と共に確かな認識です」と答えています。正しい信仰は、ただ熱心に信じているだけでなく、自分の信じている対象を認識する知識の面がなくてはなりません。この信仰の知性に耐えられないものは、迷信です。
  パウロは「彼らは神に対して熱心であるが、その熱心は深い知識によるものでない」(ローマ10:2)と、パリサイの律法学者たちを批判しています。

  U 人間性(ヒューマニティー)

  「そして言葉は肉体をとり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)。神は人間になった(イエス・キリスト)。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」。それでバルトは「神が人となられた以上、人間(ヒューマニティー)が万物の尺度である」と申しました。対話性と言ってもよいです。

  ものみの塔の「輸血禁止」や、統一協会の血わけや集団結婚は、まさにヒューマニティーを犯す迷信に過ぎません。その組織はほとんど上からの組織、独裁的で民主的でありません。真の信仰は人間性を豊かにするものでなくてはなりません。

  V 僕として(奉仕)

  したがって、真の宗教は支配するものでなく、奉仕する愛の宗教でなくてはなりません。

  ここで最初の問いにもどって、祖母の信心は迷信だったのでしょうか。確かにお地蔵様のお札を、おなかの痛い子供に飲ませるのは、非科学的で迷信でしょう。にもかかわらず祖母がお地蔵様に何かを頼み、慰めと救いを求めていた、その信心は否定できません。祖母はまだ本当のものに出会っていないが、真実なものを求める途上にあったのでしょう。
  パウロは、「律法をもたない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら、たとい律法をもたなくても、彼らにとっては、自分自身が律法なのである。彼ら律法の要求がその心に記されていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしして、その判断が互いに訴え、あるいは弁明しあうのである。そしてこれらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人びとの隠れた事柄をさばかれるその日に明かにされるでろう」(ローマ2:14-16)。すべてのことはキリストが最後の時に明かにされるでしょう。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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