3月2日(日)「時を知るゆえに」説教要旨
伝道の書3:1-11 ローマ13:11-14

  「あなたがたは時を知っているのだから、特にこの事を励まねばならない」。

  キリスト者の特徴は、第一に「時を知っている」ことです。しかし、「時間ぐらいは、誰でも知っている」と言いませんか。確かに誰でも時計をもっていて、「今何時?」と聞いたりします。

  しかし、それは聖書が言う「時」ではありません。ここで言う時は「カイロス(時期、チャンス、時点)」です。信仰でいえばキリストを信じ、洗礼を受ける時、聖霊の体験をした時です。一般には子供が生まれた、恋愛をした、皆ある時の一点をもっています。それが「カイロス」です。時計で見ている時は、過去から現在、そして未来へと流れる時間です。

  信仰者は、カイロスを知っています。「受洗からして、復活のキリストと結合され、生命をもたらす霊の力が彼らのうちに働き、私たちを支えるゆえに、救いの将来の永遠性が、私たちの生の現在の時の中に入り込んで来ていることを知っています」(ヴィルケンス)。私たちが経験したカイロスの時(以下四つ)は、たいがい「救いの将来の永遠性が、私たちのキリスト教的生の現在の時の中に入り込んで来る」、そういう時です。永遠に目覚める時です。キリスト者にとって、この時の自覚は四つに分かれます。


  • T 今年は紀元2008年と言います。今から2008年前、永遠が時間の中に入って来た。神の子イエス・キリストが誕生したクリスマス、キリスト者はこのカイロスを、紀元元年としました。キリスト者なら誰でもその時(カイロス)を知っている。いやキリスト者でも、平凡に時を過ごして、うっかり忘れていることもあります。昨日も今日も変わりなく過ごして行きます。平凡な毎日です。しかし、もしあなたがキリストを信じておれば、変わってきます。「あなたがたは時を知っている」、まず第一イエス・キリストがこの世に来たことを知っています。


  • U そして第二に、私が、私たちではありません。このほかでもない私一個人が、イエス・キリストに捕らえられ、救いの御業を知った。永遠がこの私の中にはいってきた。このことを知っています。パウロは、この私自身に入ってきた永遠のことを、「もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちにあって生きている」と言いました。受洗の時です。


  • V ここで私たちは、旧約聖書の御言葉を引きましょう。「神のなされることは、皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」(伝道の書3:11)。 第三に、私たちは、皆その時にかなって美しい時(カイロス)を知っています。それは「神は、神を愛する者たち、ご計画にしたがって召された者たちと共に働いて、すべてのことを益となるようにしてくださる」(ローマ8:28)、その時です。 


  • W 「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでに来ている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」。それにもうひとつの時をキリスト者は知っているのです。キリストが再びこられる時です。これは個人的には、死の時と考えてもよいです。死とは、私を愛してくださったイエスさまにお会いする時なのです。 
 そして「あなたがたは時を知っているのだから、特にこの事を励まねばならない」。「この事」とは何でしょうか。それは「愛する」ことです。少し前の所に
  「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない。人を愛するのは律法を全うするのである。・・・どんな戒めがあっても、結局、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』というこの言葉に帰する。愛は隣人に害を加えることはしない。だから愛は律法を完成するものである」(ローマ13:8-10)
  とあります。また
  「永遠に残るものは、信仰と希望と愛と、この三つである。そのうち最も大いなるものは愛である」(Tコリント13:13)
  と言われています。その意味は次のことです。
  「愛のみが残るから、たとい世の中がどうであろうと、時代がいかに変わろうと、変わらない言葉は愛である」。
  どんな知恵おくれの子でも、愛を知っています。アルツハイマーの人でも、自分を愛する人を知っています。愛は知識を越えて進む言葉です。「君を愛している」と、言語で伝えなくても、愛は伝わります。そしてその愛を身をもって具現したイエス・キリストが、本当に主であることが、だれの目にもはっきりと分かる時がくるのです。「時が初めて信じた時よりも、近づいている」。来りつつある時(カイロス)を待ちつつある。その時、大切なことは何か、愛です。

  第一のカイロス、キリストがこの世に来た、それは愛の主として来たのです。第二の私自身の中にキリストが来た、それは愛の主が私をとりこにしたのです。第三の旧約聖書の「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」。これは、人生の刻々の時、不安の時、苦悩の時、病の時、その時にかなって美しい時を知らされます。それはマイナスをプラスに変える神の愛にほかなりません。「罪の増すところには、恵みもいやます」(ローマ5:20)「わたしの足がすべると思ったその時、見よ、あなたの恵みはわたしを支えられました」(詩編94:18) 。 第四の時、それは最後、あなたの死の時です、しかし、忘れないでください、それはキリストの再臨の時と重なります。もうあと一〇分で、あなたを愛し十字架にあがなった主にお会いできる時です。その時、愛だけが永遠に残ることを忘れないでください。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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