3月9日(日)「神 の 深 み」説教要旨
詩編130:1-8 エペソ3:16-21 

  バルトの神学を読んだ時、神の高さを知りました。神は、私たちには知られないほど高い方で、私たちはその前に、ただひれ伏すのみ。生ける神の偉大さに打たれました。
  そしてモルトマンのものを読むと、神は上でなく前にいらっしゃる。神は来られる、希望の神だと。来るべき神、時事刻々変わるこの歴史は、前方に向かってゆく希望の神への過程であることが分かりました。神の高さでなく、長さです。
  しかし、今度は、ティリッヒのものによって、神はあなたの深みにいらしゃると言われ、びっくりしました。確かに聖書は、神の深みについて書いています。 

  「神は御霊によって私たちに啓示してくださった。御霊はすべてのものをきわめ、神の深い事柄までもきわめるものだからである」(Tコリント2:10)。「主よ、私は深い淵からあなたに呼ばわる」(詩編130:1)。
  今日の箇所でも、「キリストがあなたがたの心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし、愛を基として生活することにより、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているものすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈る」とあります。私たちはあの人の祈りは「深い」とか、罪が「深い」、あの教師の愛は「深い」とも申します。「深い」の反対には、二通りあって、一つは「高い」、もう一つは「浅い」です。

  T 「高さ」に対する深さは、その低さに特徴があります。それは奥行きの深い真の謙虚さです。ですから、エペソ3:16には、「このゆえに私の膝をかがめて、天において地においてすべて父の家と呼ばれているものの根源である御父に祈ります」とあります。
  ここには神が「父」と呼ばれています。それは私たち自身の家庭、家、家族生活の根源にいるお方だということです。私たちが神を「父」と呼ぶとき、あの放蕩息子の父親のように無条件で受け入れる愛のお方を意味しています。それは、私たちが父母と呼ばれるような者になる時、私自身が、この愛なる天の父の子となり、低く「膝をかがめ」なくてはならないということなのです。  

  「神に向かって、『汝』と呼びかけることができる者こそ、人の子から『お父さん』また『お母さん』と呼ばれる資格があるのです」。そのことは「私には、この教育について、分からない部分が多くある」という告白を含んでいます。
  ただその「分からない」にも、二種類あります。一つは、「てんで分からない」で、全く混乱している姿です。それでは教育できません。しかし、第二に、「分からない」といっても、分かっている部分があり、その上で「よく分からない」という場合があります。本当の教育者は、ある程度分かりながらも、その実「分からない」部分をもち、謙虚に神に聞く人です。「分からない」という深さです。子供自身、神からいただいたものゆえに、神から力をいただき、神のみ旨を知って、初めて育てることができるのではないでしょうか。蛙は高く跳ぶ時、深く低く身をかがめます。

  U 「どうか父がその栄光の豊かさにしたがい、み霊により力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださるように」、これがその祈りの内容です。教育というものは、内的なものです。心と心のかよいです。
  ところが今日、日本の国を見ると、ほとんど家庭でも、学校でも、外的なことばかりやかましく問題になっているような気がしてなりません。家庭では有名校入学が教育の第一目標です。学校も有名校入学、そして校則を守らせることが、第一です。子供の心に入って、その心を豊かに育てることが忘れ去られています。だから今、「み霊により力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださるように」という祈りが、大切なものになります。ここでは内なる心の深さが、神の深さに通じるのです。   

  「知識をはるかに越えたキリストの愛を知って、すべて神の満ち満ちたもので、あなたがたが満たされますように[祈ります]。私たちの内に働く力によって、私たちが求め、思うことをはるかに越えてしてくださることのできるお方に、教会により、キリスト・イエスによって、栄光が世々かぎりなくありますように、アーメン」。これがその祈りです。そこにはかなえてくださるお方に対する深い信頼があります。それは人間の「知識をはるかに越えたものです」。「私たちが求め、思うことをはるかに越えてしてくださることのできるお方」がいらしゃいます。
  人間は、自分のできる可能なところまでしか祈らないものです。それを越えたものにまで思いがいたらないのです。それが神の深さだからです。それは不可能を可能とする祈りなしにはできません。そうでなければ人間の愛は、小さく、短く、浅く、低いものにとどまります。人間が五と思っていある時、神は一〇をしてくださるかも知れません。
  深く大きく祈りましょう。愛が「広く、長く、高く、深い」ためには、私たちの祈りも、「広く、長く、高く、深い」ものとならなくてはなりません。その時、聖書は、「私たちの内に働く力によって」と付け加えていることに注意しましょう。神の力、その絶大な力も、私たちぬきではありません。私たちを通して行われます。ですから「何事もあなたまかせの秋の暮れ」ではいけません。あなたの中に神の力が働くのです。自分自身の力ではありません。神の力ですが、しかし、それは外から来るのでありません。実に祈るあなたの内に働いて、ことをなさるのです。

  V しかし、深さは、浅さの反対の場合もあります。考えが深いとか、理解が深いという場合です。しかし、神の深さの場合、もう一つの面があります。それは「罪の深さ」に関連しています。
  すると、この深さは十字架と関係しています。十字架のイエスの右左には、二人の盗賊がいました。その罪は深い、しかし、その盗賊にイエスは言います、「今日、あなたは私と共にパラダイスにある」と。罪の深みは、イエス・キリストの愛の深みです。<
  「主よ、私は深い淵からあなたに呼ばわる」。「あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、誰がよく立つことができるでしょうか。しかし、あなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。「私は主を待ち望みます。夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。イスラエルよ、主によって望みを抱け。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです」(詩編130編)。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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