3月16日(日)「血 の 意 味」説教要旨
イザヤ53:4-12 ヘブル9:16-22

   「こうしてほとんどすべてのものが、律法にしたがって、血によってきよめられたのである。血を流すことなくば、罪のゆるしはありえない」(ヘブル9:22)とあります。 

  民族主義者は、民族の血と言いますが、それは自分たち民族の団結勝利しか考えない、いわば集団的エゴイズムにしか過ぎません。それに対して、「イエスの血」は他者のためにいのちを捨てる隣人愛の極致です。
  「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、かれは打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ、彼は自らこらしめを受けて、われわれのに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53章)。

  その血の意味は、
  • T イエス・キリストが十字架にかかり、血を流されたのだ、あなたたちは、人のためにせめて汗を流しなさい。そのいのちがけの愛を見習いなさいという意味でしょうか。これでは血の意味が「模範」という道徳的なことになります。確かに聖書には、
      「あなたがたは、実にそうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受肉、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Tペテロ2:21) とあります。しかし、さらに続きます。
      「キリストは罪を犯さず、その口にはいつわりがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをする方に一切をゆだねられた。さらに私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自身の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」(Tペテロ2:22以下)。  

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  • U これはもう模範ではありません。模範を越えて、「代理」です。ここには、旧約聖書の時代の犠牲に対して、イエス・キリストの献身は、ご自身を捧げ、わたしたちに代わって罪の重荷を十字架の上で、引き受けてくださるものです。
      この世には、他人に代わってもらえることと、代わってもらえないこととがあります。物質にかかわることは、代理してもらえます。しかし、人格的なこと、精神的なことは、ひとに代わってもらうことはできません。自分の代わりに勉強してもらったり、代わりに死んでもらうわけにはゆきません。

      罪とか信仰といった世界は、決して代理不可能な世界です。それなのに、世界にただ一度だけ、たったの一人のお方だけ、わたしの代理人がいます。十字架のイエス・キリストです。キリストが、わたしたちに代わってご自分の命をささげ、罪のゆるしを実現できたのは、十字架が永遠なる神の御業だからです。神に対して犯した罪をゆるすことができるのは、永遠なる神のみです。
      彼は、「手で作らない、この被造物に属さない、より偉大な、完全な幕屋を通って、やぎと子牛の血によってでなく、ご自身の血によって、一度限り聖所に入り、永遠のあがないを得られたのです」(ヘブル9:11-12)。

      しかも同時に、イエスは完全にわたしたちと同じ人間であって、「ご自身を傷なき者として神に献げた」のです。
      ここにわたしたちは、「わたしに代わって、神の前に立つ人の姿」を見ます。イエス・キリストが血を流して死ななかったなら、わたしの代わりに立てなかったでしょう。このわたしの有限な生を死に、共に死んで共に生きる人の姿を、この十字架のイエスの中に見ます。この方だけが、決して代わりえないわたしの罪を、代わって受けられたのです。

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  • V しかし、 第三の意味があります。イエスの十字架の血とは、神の子がご自身のいのちをもって買い取ったもの、わたしたちの救いであり、それは神の永遠の愛を表しています。罪責をになう愛であります。
      もしただ南無阿弥陀仏というだけで救われるなら、そこから倫理は出てこないでしょう。「もゆるこころもたぎつ涙も罪をあがなう力はあらず」と賛美歌にあります。


  ここには「一度だけ」ということが、記されています。「世々の完成にあたって一度だけ、ご自身のいけにえによって、罪を取り除くために現れたのです」。「そして一度だけ死ぬことと、その後のさばきとが、人間に定められているように、そのようにキリストもまた、多くの[人びとの]ため、その罪を負うために一度だけ捧げられ、二度目には罪とは別に、彼を待ち望んでいる人びとの救いのために、現れるでしょう」。

  つまり二つの「一度だけ」があります。神の業は、「一度だけ」でよいのです。それは絶対的で完全だからです。そのことは、もう一つの「一度だけ」に対応しています。それはわたしたちの生涯の「一度だけ」です。それはわたしたちの人生が、いや、わたし個人の生そのものが、真剣勝負で、やりなおしがきかないことを表していないでしょうか。

  わたしの「一度だけ」は、神に問われています。「あなたは今日という日のうちに、信じ悔い改めなさい」と。「二度目には罪とは別に、彼を待ち望んでいる人びとの救いのために、現れるでしょう」。それはキリストの再臨を示しています。神の国の到来の日です。その二度目には、わたしたちのすべてのことが完成し、神がすべてのすべてになっているでしょう。

  そこでは罪はありません。しかし、この二度目は、一度目の繰り返しやコピーではありません。それは一度目の完成です。わたしたちは皆、一度だけこの世に生まれ、一度だけ生を生き、ついに一度だけ死にます。しかし、その生の中に、イエス・キリストの一度だけが、十字架の一度だけが、入り込んでいます。それはわたしたちの一度だけの生涯を、完全に捕らえて離さず、この神の一度だけの中にあることを明かにします。この一度だけに目覚めた人に、イエス・キリストの二度目の出会いが、意味をもってくるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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