3月23日(日)「共に歩まれる主」説教要旨
ルカ24:13-32

   「この日、二人の弟子は、エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へゆきながら、この一切の出来事について互いに語り合っていた」。

  「二人の弟子」とは、ほかでもなくイエス・キリストの弟子です。 ほかの誰の弟子でもなく、その彼らがそこから逃げ出した当のエルサレムで十字架にかけられたイエス、終始彼らが先生とお慕いしていたそのイエス・キリストの弟子がです。
  どうして彼らは、エルサレムからエマオに行ったのでしょう。逃亡しているのです。
  何から? 自分の師であるイエス・キリストから、生ける神から逃走しているのです。「神からの逃走」です。

  私の生涯にも何度かありました。少なくとも大きな逃走は三回です。中学生の時、外語の学生の時、それから牧師になってからです。ピカートの『神からの逃走』という名の本があります。それによると、今の時代は、神からの逃走の時代だ。皆神から逃げ出しているのだと書いてあります。

  しかし、よく考えて見ると、聖書には、神からの逃走が描かれているということもできます。「そんな馬鹿な、聖書は神への信仰の書ではないか」と言うかもしれません。
  アダムはどうでしょう。禁断の木の実を食べて、しげみに逃げ隠れました。カインは弟を殺し、逃げ出しました。モーセは神に召された時、「私は口べたです」と逃げました。ヨナは、神の召しを逃れ、タルシシ行きの船に乗りました。エリヤ、ペテロみなそうです。

  皆さんも神からの逃走の経験がないでしょうか。神様から造られていながら、どうして人間は、その神から逃げだすのでしょうか。
  難しく言えば、相対なる人間は、絶対に耐えられないのです。もっと分かりやすく言えば、放蕩息子のたとえの弟息子は、父から離れて、好き勝手にやりたかったのです。
  しかし、それはうまくゆきません。遠い国で放蕩に身を持ち崩してしまいました。相対なる人間は、絶対者を離れて決してうまくゆかないのです。
  アウグスチヌスは言いました、「神よ、私はあなたによってつくられたゆえに、あなたを見いだすまでは、真の平安を得ません」と。

  今この聖書の箇所で二人の弟子が逃げているのも、恐ろしいからです。
  何が?
  イエスの弟子ということで捕まるのが恐ろしいからです。そして処刑されることを恐れています。結局、逃走しているのは、死ぬことが恐ろしいからです。神を見いだすまで平安を得ないのに、その神から逃れて、平安を得ようとすることは、本来できないのです。これは自己矛盾です。そしてこの自己矛盾を乗り越えるのが信仰です。しかし、私たちの力で、この自己矛盾を乗り越えることはできません。  

  「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いてゆかれた」。
  私たちは、この自己矛盾、神からの逃走と神における平安の自己矛盾を乗り切ることはできません。しかし、イエス・キリストご自身が、私たちに近づいて来てくださるのです。それは生前の肉のイエスではありません。霊のキリストです。よみがえりのキリストです。私の三回の自己矛盾においても、それを自分の力で乗り切ったのではありません。「向こう側からです」、神様の側からです。  

  彼らの恐れていたのは、結局、死です。
  私自身も死ぬことを恐れました。教会に行ったのもそのためです。しかし、イエス自身が近づいてこられました。
  「先生、それで信仰によって、死はこわくなくなったですか」とよく聞かれます。答えは、イエース・アンド・ノーです。 信仰し洗礼を受けても、死ぬことはこわかったのです。その意味では「ノー」です。 しかし、不思議なことが起こりました。牧師をしていると、しばしば人の死に際に会います。その無の経験を繰り返すうちに、復活ということが分かりました。その意味で、「イエース」です。  

  「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」。私たちの側から、復活の主に出会って、解決することはできません。イエスが、復活の主が近づいてきて、私たちのさえぎられた目を開いてくださるのです。 「ああ、愚かで心の鈍い者たちよ」と。
  そしてイエスはさらに先に行こうとされる。しかし、弟子たちは引き留めます.聖書はこの逃亡して行く人間たちと共に歩むお方を描いています、その方は、説き明かすよりも先に、説明するよりも前に、わたしたち悲しそうな顔をしている人びとと共に歩んでくださるのです。まさに「インマヌエル、神われらと共に」であります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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