3月30日(日)「希望の神学」説教要旨
ローマ8:18-25

  私たちは、神は天の高みにいます、聖なる絶対なるお方だと思っています。しかし、希望の神学では、神は前方におられ、神の御国において救いの約束は完成します。するとそこに行く途中、この私たちの歴史、生活史が、神への信仰の視野に入ってきます。高い神のみだと、信仰は個人主義的で、世界の歴史が視野に入ってきません。そのことを大変よく示しているのは、パウロの言葉です

   「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのでなく、ただ捕らえようとして追い求めている、そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである。わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ3:12以下)。

   希望の神学は、神を前方に見すえ、そこへゆく途中が生きてくる信仰です。ふつう途中は、「中途半端」と思われがちです。しかし、途中もまたキリストに捕らえられているのです。そこで初めてこの世の歴史について発言できます。
  しかし、『希望の神学』の次に『十字架につけられた神』が出ました。そこで、この希望の神が現実の苦悩の中に入ってくる姿を見ます。この苦しみと希望の関係が、今日の聖句に現れています。 「今のこの時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」。
  今のこの時の苦しみ、まず自分たち個人の生活で、「病気、家族の病気」、人間関係の不和、親子の対話の欠如、社会的には、退廃した道徳、無意味な殺人。政治の無力などがあります。しかし、聖書は、これらを含め「今の時の苦しみは言うに足りない」と言います。
  どうしてですか。現代の苦悩は言語に絶するのではないですか。
  しかし、そこには「来るべき栄光に比べたら」とあります。ここでは「苦しみ」を語っているのでしょうか。ちょっと見るとそう見えます。
  しかし、ここでは実は「勝利」と「望み」が語られ28節には、「万事を益と変えてくださる神」が出てきます。「しかし、私たちを愛してくださるお方によって、私たちはこれらすべてのことにおいて勝ち得てあまりがあります」。

   皆さんの背後には何がありますか。そこには金・仕事・物・運命・名誉・見栄などがあります。聖書では「被造物は虚無に服した」とあります。
  アウグスチヌスは、「私たちは神の愛によって造られた、しかし、虚無から造られた」。「上に向かえば、神の愛に到達するが、下に落ちれば、虚無になる」と言いました。そしてここには三つのうめきがあります。 1「被造物のうめき」、 2「私たちのうめき」。しかし、それだけでなく、3「御霊のうめき」が、しかも、それは「切なる言葉に言い表し得ないうめき」です。苦悩の果て、被造物、私たちはうめきます。けれども、そこに言葉につくせない聖霊のうめきがあるとは、救いの第一歩です。

   そしてさらに三つの「共に」があります。「人が被造物と共に」、「人が人と共に」、そして「神が全被造物と共に」いたもうのであります。三つの「共に」があることは、まさにこのうめきの中での「希望」であります。 ここには希望が語られています。
  「目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。私たちは見ないことを望むなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」(24節)。

  ニヒリズムの問題に、背後に金がありました。「目に見える希望」は真の希望ではありません。見えるものは、消え去るからです。バブルは崩壊します。今日、物質主義になっているため、不安があります。けれども、ここにあるのは見えない希望です。するとではお金はいらないのか。という疑問が沸いてきます。目に見えるものは、大事ではないのか。
  しかし、キリストは、「何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな」、「あなたがたの天の父は、これらのものが、あなたがたに必要であることをご存じである」と言われました。
  お金は必要です。しかし、それは何か大事なことをするための手段にすぎません。問題は、お金が目当てになることです。物質が、私たちの価値観の中心を占めることです。大事なのは、
  お金の背後にある志です。そして志の最大なものは愛ではないでしょうか。「誰か愛している人のいる人間は自殺しない」と言われています。車椅子の人びとのつくった自立ホーム「ありのまま舎」に自殺志望の人が来ました。彼は自殺をやめたそうです。明日もしれない筋ジストロフィーの人びとが、必死に生きている姿を見たからです。
  「だれがキリストの愛から私たちを離れさせるのか、艱難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か、しかし、私たちを愛してくださった方によって、私たちはこれらすべてのことにおいて勝ち得てあまりがある。私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものの、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:35)。
  愛している人は絶望しません。

  「神を愛する者たち、つまりご計画にしたがって召された者たちには、すべてのことが相働いて益となります」。
  「共に働く」とは、その弱さと共にです。悪い点も共にです。弱さ、悪い点も聖霊が働けば、益となります。そして「すべてのことが」です。本当にすべてのことがですか。ただあなたが、神を愛するならです。その時、あなたの欠点も、弱さも、悪いことも、みなよく働きます。あなたは、「わたしは神を信じています」と言いますか、しかし、「あなたは神を愛していますか」頭だけでなく、ハートも、あなたが、頭だけでなく、ハートから神を愛し始める、その時、出来事が起こるのです。それが希望の神学です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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