4月6日(日)「対 話 す る 神」説教要旨
ローマ15:7

  私は、病める者との牧会カウンセリングが、三位一体の神と関係あることに、最近きづきました。うつの人のカウンセリングをしている時、しばしば聖霊を覚えます。
  三位一体の神とは、父・子・霊として(もし霊が母の位置を占めているとすれば)、私たちの三位一体の神は、また私たちの家族関係に反映しているのです。三位一体の神において、父は子を愛し、子は父を愛し父に従い、聖霊(母)はこの両者を結ぶ愛であります。ここには父子母の美しい交わり、対話する姿が描かれています。
  しかし、それはエデンの園の理想的姿にほかなりません。人間は堕落し、アダムはエバに責任をなすりつけ、エバは蛇のせいにします。それで聖書は、父子の交わりの断絶を描きます。つまり、父は子を捨て、子は父に捨てられ、十字架においてイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と苦悩のうちに叫ばざるをえなかったのです。

  この叫びについてよく「どうしてこんなことがあるのか」と質問されます。それは、人間の罪、断絶、親子の対話の不能、夫婦の離別、離婚などに発展する、人間の根本的罪を描いているのではないでしょうか。この十字架の上での、イエスの悶絶、絶叫は、まさにこの人間の罪を負う神の子が、人間の断絶を身に負うた叫びにほかなりません。「どうして、父よ、私を捨てたのですか」。今日、日常茶飯事となった、親を殺す子、子を殺す親は、このことに関係があるのです。
  しかし、福音書によると十字架は、それで終わりません。福音書には、この十字架の悶絶の後、「神殿の幕が真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)とあります。それは神と人をへだてたもの(幕)が、神の子イエスの死を通してなくなった、神は人に近づき、人は神に近づく道ができたことを表しています。その証拠に、イエスを十字架につけた兵隊の隊長が、この有り様を見て、「真にこの人は、神の子であった」と叫んだのです。これは最初の信仰告白です。

  子を捨てる父、父に捨てられる子、そこにもう一つ、「言葉に言い表せないなげきをもってとりなす」聖霊が、この分裂を結ぶのです、ですから、三位一体の表現は、「御子イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わり」と言います。聖霊は私たち分裂した関係の交わりの回復の力です。聖霊は私たちの交わりの源にあります。ここに救いがあります。「言い表せないなげきをもってとりなす」聖霊の導きがあるのです。 

  この関係を具体的に表したのが、ローマ15:7です。 「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」。聖書には、「受け入れる」という言葉が多くでてきます。「この幼子の一人を受け入れた者は、すなわちわたしを受け入れたのである」。「この幼子のように神の国を受け入れなければ、そこに入ることはできない」。

  「いやし」とは受け入れる行為です。放蕩息子の父は、何も言わずに息子の帰還を受け入れました。そこに喜びがあります。牧会カウンセリングの真理は「受け入れ」にあります。ボンヘッファーは、それを「聞くことの奉仕」と言いました。「空の鳥が空気を必要とするように、お魚が水を必要とするように、私たち人間は、互いに受け入れられることを必要としている」(モルトマン)。

  「キリストも私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」。「信仰によって義とされる」とは、神があの放蕩息子の父のように、あなたの罪にもかかわらず、受け入れてくださったのです。義認とは「受け入れられる」ことです。それだから、信仰によって義とされた人は、互いに受け入れあって、神の栄光をあらわす、それは聖化です。

  私たちはふつう相手が、しゃべりまくる時、聞き役にまわります。反対に相手が話さず、黙りこくっている時、しゃべる一方になります。それは間違っています、正反対です。相手が沈黙している時、しゃべってはいけません。じっと耳をすまして聞かなくてはなりません。しかし、相手がしゃべらないのに、何を聞くのですか。相手が話さない時は、相手が消極的な人、内向的な人、場合によってはうつの人です。その時、聞き出さなくてはなりません。対話とはキャッチボールです。相手がしゃべらずにいる時、こっちからだけボールを投げれば、相手は球が一杯になってささえきれなくなるでしょう。

  これはまた夫婦関係でも同じです。パウロが書いているローマの教会は、ユダヤ人と異邦人からなっていました。そこに互いの異質性がある時、難しいのです。それを克服することなしに、夫婦関係でも国際関係でも成り立たないでしょう。
  その時、キリストが私たちを受け入れてくださったことが大切になります。受け入れることが難しいのは、この異質性を克服するために、自分に死ななくてはならないからです。それを克服する時、神の栄光が現れます。受容という時、そこに相手に対する尊敬がなくてはなりません。

  ツインクは、これを「あなたがたはお互いを評価しなさい」と訳しました。自分より小さい者をも尊敬するのです。いやしが起こるのは、この受け入れることが起こる時です。「愛とは、単に他者を苦しみから救う力が自分にないことを自覚しつつ、なおもそのやりきれない思いと共に生きようとする意志なのである」。十字架の主は決して十字架から降りようとはしませんでした。そこにとどまる時、神は彼を助けたのです。そこ以外にどこに救いといやしがあるでしょうか。偉大なる神の受容よ。

  そしてそこに三位一体の神がいます。父と子(二つ)にとどまりません。「言いがたきなげきをもってとりなす」聖霊があります。13節に「どうか望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たして、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように」とあります。父と子の交わりに聖霊は加わります。聖霊は交わりなのです。その時、義認は聖化に変わります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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