4月13日(日)「世 と 交 渉 せ よ」説教要旨
Tコリント7:29-31

  「時は縮まっている」。世界の終わりは近い。もっと端的に言えばあなたが三日後に必ず死ぬと分かっている時、何をしますかといことです。ある人は、「うんとおいしいものを食べ好きなことをして遊ぶ」。「われらいざ飲み食いせん、明日死ぬべければなり」(Tコリント15:32)。しかし、私の恩師は自分の著作の整理をしました。またルターは、明日世界が終わるという時でも、同じようにリンゴの木を植えると言いました。あなたはどれですか。享楽ですか、有為な仕事ですか、それとも昨日と変わらずリンゴの苗を植えますか。ここで言う、「時は縮まっている」とは、そういうことです。神学的には「終末論」(世界の終わりについての理論)と言います。

   「今から妻のあるものは、ない者のように」とは何でしょう。
   愛する友は、ドイツで博士号をとって、日本に帰りました。よい会社に就職し、ドイツで知り合った、美しい女性と婚約し、あと一月で結婚と言って、知人に結婚披露宴の通知まで出しました。しかし、何たる運命のいたずら、健康診断で、ガンと宣告され、ひょとしたら数カ月もつか、と言われました。彼は医師に、「自分はキリスト者だから、少しも死を恐れない、どのくらい生きられるのか、教えてくれ」と申しました。そして愛する婚約者に相談しました。婚約者もキリスト者、いささかも動ぜず彼と結婚すると申しました。「たとい二カ月のいのちであっても」。こうして結婚式は、教会で行われました。わたしは彼から通知を受けましたが、そこには、驚くほどの、明るさが満ちていました。喜びにあふれていました。多くの知人たちも、彼らのこの勇気ある証しに、頭が下がりました。それこそ永遠に目覚めた者の真理の証しにほかなりません。  

   宗教とは、この死を(無を)見据えて人生のことを考えるものです。永遠と時間、絶対と相対の関係を考えるものです。私たちは時間の中にある、私たちは相対的である。しかし、それだけなら宗教はありません。この時間、相対性を貫いて、永遠なるもの、絶対的なものがあるというのが宗教です。聖書では過ぎ行くこの世界も永遠なる神がお造りになった。だからこの時間は、永遠なるものに向かって進んでいると考えます。「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが出てきます。
  永遠と時間は「ごとく」でつながっています。永遠なる神は、今日もいらっしゃる。この相対的な私の中にもいらっしゃる。明日滅びる世界の中にもいらっしゃる。これがキリスト教的救い、信仰にほかなりません。

  そこで「買う者は、持たない者のように、この世のものを用いる人は、用いつくさないようにしなさい」という教えが意味をもってきます。
  私たちが買うものは、それは神が造られたものにほかなりません。この世のものはみな、神の創造物にほかなりません。私たちはついそれは自分の所有物だと勘違いします。
  3日後に死ぬという時、初めて、それは私の物ではなく、決して私の所有物ではなく、一時神から貸し与えられた物だと気づきます。いつか、それは神に返さなくてはならない物だと気づきます。自動車をもっており、大変好きな人が、腰を痛めてしまいました。彼はそれから、あまり自動車に乗らず、必要最低限にして、歩くように努めました。そしたら腰がよくなりました。「この世のものを用いる人は、用いつくさないようにしなさい」とは、そういう意味です。
  永遠の世界に目が開かれた人は、時間の世界がいらないのではなく、むしろ、それを正しく用いることができます。

  そしてこのことは、裏返しがあります。何も持っていない時です。「ないないずくしです」、「金もない」、「才能もない」、「健康もない」、その時、すべては神のものだとすれば、必要に応じて神がくださるのではないか。「持たない人は、持っている人のように」。
  これを神様銀行と言います。ピリピ書には、「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは飽くことにも、飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」、「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたの一切の必要を、キリスト・イエスにあって満たしてくださるであろう」。 そうすると私たちは、次のことから自由になれます。

  まず劣等感コンプレックスです。「持たない人は、持っている人のように」です。
  また思い煩いから自由になれます。「何を食べようか、何を着ようかといのちのことで思い煩うな」、「これらのものがあなたがたに必要であることは、神がご存じである」。
  次に傲慢から自由になれます。「持っている人は持たないように」。この世の様は、過ぎ行くからです。すべてはみこころのままに。それゆえあなたは自由です。イエス・キリストを知り、永遠と時間をつなぐお方を知ったあなたは自由です。恐怖心はなくなりました。この世のはかなさを知った人が、享楽的、否定的に走るような態度ではなく、パウロはもっと積極的です。過ぎ去るゆえに、その過ぎ去るものを通して、過ぎ去らないものを証ししてゆくのです。だから神の子の出現を望みをもって待つのです(ローマ八・一九以下)。それが希望の信仰にほかなりません。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.