4月20日(日)「すべてが導かれる」説教要旨
ローマ8:26-28

  自分の長い人生の中で、どんな心配事が起こっても、必ず神の恵みと摂理によって、「すべてが導かれています」。「それはあなたが、恵まれた境遇にいるからでしょう」と言うかも知れません。
  そうではありません。今、聖書で言う「神は、神を愛する者たち、すなわち、御旨にしたがって召された者たちと共に働いてすべてのことを益としてくださる」、これは真理だと確信します。
  私は若いころ病気がちで、三十歳までもたないと言われ、健康法を試みました。病が益となって、今誰よりも丈夫になりました。不幸が益と変えられるのです。
  また神学校行きを家に反対されたため、東京外語のドイツ語科に入ったことは、その後、神学をやり、翻訳や著作をするために、どんなに役に立ったかしれません。その外語で浄土真宗の坊さんの子と出会って、信仰に疑問を感じ、教会へゆかなくなった時、それは仏教を学ぶ機会を得て、後にドイツで道元や西田幾多郎を伝える基礎ができました。そうでなければ、私は仏教に無知であったでしょう。こうして悪いこともみな、回り回ってよく働くことを知りました。
  「でも広島の原爆で死んだ人びとはどうか、それでも、すべてが働いて益となると言えるか」。それこそベンヤミンが言うように、死者の名が覚えられねばならない事態です。それは生者の責任です。その基礎には「イエス・キリストは死者と生者の主となるために、死んでよみがえられた」(ローマ14:9)があります。その際、死者が生者の先にあることを忘れないでください。

   ここに「愛」という言葉があります、
   「しかし、私たちを愛してくださった方により、私たちはこれらすべてのことに勝ち得てあまりあり」。「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない」。
  神のこの絶大なる愛を通して、すべてのことが益と変えられるのです。
  皆さん、この神の愛に勝るものが、この世にありますか。死もこの愛に勝てないのです。アウシュヴィッツの後、そこで親族友人を失ったフランクルは言いました、「このような恐ろしい経験をしたからには、この世界で、神以外に恐れるべきものは、一つもないという不思議な感情が人びとを支配した」と。
  セーターの裏を見ると、めちゃくちゃしかし、表を返せば、きれいな模様、きっと今不幸に嘆いている人も、やがてその表がえしの世界を見た時、納得が行き、「おお主よ、おお神よ」と叫ぶでしょう。すべてが表がえしになる時、それが神の国の到来なのです。

    時代には不合理と、無意味な苦悩とがいたる所にあります。本当に「すべてのことが」「不幸も、うめきも、あの虚無さえも、益に働くのでしょうか」。しかし、「すべてのことが益」とは、「キリストにおいて神から賜る愛」にほかなりません。この世の最大の悪さえ、キリストの十字架の外で起こっていません。私たち人間が、神に逆らうことすら神の世界の出来事なのです。そこで最悪なことは、この神の絶大な愛への信仰を失うことです。
  「御子のかたち」(29節)とは、十字架にかかり、私たちの罪をになわれ、死に至るまで従順であられた、あのキリストの御姿です。その時、私たちはもはや、「神について」でなく、「神の中で」知り、かつ信じる、「聖霊について」でなく、「聖霊をいただいて」知る、「神の愛に関して」でなく、「何物もそれから離れさせることのできない」、「神の愛の中で」信じ、愛し、生きるのです。
  聖霊はこのことを、出来事として私たちの中に起こされるのです。神は単に、御霊を送って私たちを助けるだけでなく、聖霊は私たちのまわりに生ずるあらゆる出来事を通して働くのです。あなたは、もはや神の観察者でなく、信仰者、神の愛の劇場の観客でなく、その舞台にのぼって神と共に演ずる役者となるのです。

   神の愛とは、「与える」ことです。神は愛ですから、「与える」ことが本質です。それは具体的であって、抽象的ではありません。そしてこの神の「与える」は、いつも時にかなっています。
  「神のなされることは、みなその時にかなって美しい」(伝道の書3:11)。
  ふさわしい時に与えられなければ、「与える」ことは無駄でしょう。おなかの一杯の時、ごちそうしても無駄なのと同じです。この「神の時」を知らないから、人間は神の与えを信じられないのです。しかし、後から深く考えて見ると、自分が欲しい欲しいと思っていた時よりも、この神の時こそが、一番ふさわしい時であったことが分かります。「神が私たちの味方なら、誰が私たちに敵しようか」。
  味方とは、「神の私たちのために」です。この「私たちのために」を知らないから、すべての不安、あせり、混乱があるのです。「神が味方なら、誰も私たちに敵対しえない」とは、神が味方でなければ、敵対しうることです。私たちは何と弱い存在でしょう。迫害・飢え・裸か・危険・剣、このどれ一つが来ても、人間はすぐ参ってしまいます。

  この愛は十字架におけて示されました。「私たちが現れたもう神よりほかに、何も頼りえない場所で、神は私たちに対して、真の生ける神である。そこに栄光の希望が私たちに現れます」。そのお方は、勝ってあまりがあります。この愛から何も離れさせないのですから、この愛を愛する者にとって、すべては益に働くのです。
  この世界に、この愛のほかなにものも起こらないことを信じましょう。佐賀で心の病んでいる婦人が、「神の愛を信じるのです」と言ったら、「信じきるのです」と言い直しました。そうです、信じきらなくてはなりません。「信じきる」とは、どのような事態を見るとも、正反対の出来事に出会うとも、なお神の愛を信じるのです。その時です。聖霊が言いがたき嘆きをもって助け、とりなしてくださるのは。  
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.