4月27日(日)「 すでにといまだ」説教要旨
Tヨハネ3:1-3

  私たちの人生は、「すでに」(過去)と「いまだ」(将来)から成り立っています。私たちの信仰の歴史では、どうでしょうか。ここにあるように「私たちは今や神の子である」。すでにキリストによってあがなわれ、救われていて、「神の子」となっています。キリストの救いを知り、信じている人は皆、神の子です。十字架によって救われて、この救いを「すでに」受けています。この過去が、私たちの救いの根拠です。この救いの根拠は、動くことなく、強固なものです。

  しかし、「すでに」キリストに救っていただき、洗礼を受けたのに、私は「いまだ」罪を犯しています。信仰によって義と認められたけれども、「聖化、きよめ」ということが残っています。ここに私たちの「いまだ」があります。
  今日の聖書によれば、「しかし、私たちがどうなるか、まだ明らかでない」となります。
  よく「もう洗礼を受けて、長いのですが、行いの方は、一向進歩していません」という人があります。これは途中の問題で、神学的には「義認と聖化」です、信仰によって義と認められたが、まだ聖化していない。サンダーシングは、親鳥の翼の中に、卵があたためられる状態にたとえました。親鳥の翼の中に包まれて、卵は次第に親鳥に似た者に変えられてゆきます。確かに卵の中に変化が起こっているのですが、それは親鳥の翼の中にいるからです。義認が神さまの業であるように、聖化も神さまの業なのです。確かに私が変わって来ているのですが、親鳥の中にいるからです。
  これに近い聖書の箇所は、Uコリント3:17です、「主は霊である。そして主の霊のあるところには自由がある。私たちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてゆく。これは霊なる主の働きによるのである」。
  私たちは変えられるが、それは主の働きによるのです。

  この間の事情をパウロはこう記しています。
  「私がすでにそれを得たとか、すでに完全になっていると言うのではない。ただそれを捕らえようとして追い求めている、そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ、私はすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。だから私たちは達しえたところにしたがって進むべきである」。

  これを「途中信仰」と言います。途中だから中途半端なのではありません。その途中もキリストに捕らえられているのです。信仰者の途中は、キリストの中にある途中です。
  「私の行いが」という人は、そこで神さまの業から離れています。「ただそれを捕らえようとして追い求めている、そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」。
  それは自分でのみするのではありません。途中信仰も、行いも、聖化の業も、キリストによるのです。
  だから「達しえたところにしたがって進む」と言うのです。今日はここまで達した、明日はここまで、そしてその今日達した途中も、中途半端ではなく、イエス・キリストによって捕らえられている途中なのです。

  「彼が現れる時、私たちは自分たちが彼に似る者となることを知っている。その真のみ姿を見るからである。彼についてこのような望みをいだいている者は皆、かれがきよくあられたように、自らをきよくする」とあるのを忘れているのです。
  「信仰はキリストに、行いは自分に」となっていないでしょうか。確かに「行いは自分がする」のです。しかし、「行いはキリストを通して自分がするのです」。キリストの恵みの上で、自分がするのです。私たちの「いまだ」は、神の「すでに」に基づいているのです。

  どちらかというと、(もちろん例外は多いですが)、年寄りは、「すでに」に固着しがちです。過去を語りたがります。青年は、「いまだ」に理想を託します。壮年はというと、現在に、忙しく生き、現在以外を考えようとしません。
  青年の「いまだ」は、その理想が敗れると、現実主義者になってしまいます。それは本当の「いまだ」ではありません。自分のこしらえた理想だからです。神の「いまだ」でなくてはなりません。それは理想ではなく、「すでに」を含んだ、むしろ「すでに」に基づいた「いまだ」です。
  イエス・キリストの十字架の愛に示めされたもの、それこそが「いまだ」です。常に新しい「いまだ」です。だから、その「至れるところにしたがって歩むのです」。
  年寄りの「すでに」は、自分の誇らしい過去や、「なつかしい」昔ではありません。それは、イエス・キリストの十字架の「すでに」です。「私はあなたをあがなった。あなたは、私のものだ」と呼んでくださるお方の「すでに」です。それがあなたを支えてくださるのです。それは新しい「いまだ」を含んでいます。それはイエス・キリストの再臨です。この国を目指して進むのです。その時、なすべきことがあります。どんなに年とってもなすべきことはあります。
  壮年の「現在」は、やはり「すでに」がありません。あのイエス・キリストの十字架の「すでに」に基づいて、現在があるのです。それは「いまだ」をもっています。その達した得たところにしたがって歩むのです。
  賛美歌288番に、「ゆくすえとおく見るを、ねがわじ、主よ、わが弱き足をまもりて、ひとあし、またひとあし、道をば示したまえ」とあります。「すでに」は、キリストのすでににあることを忘れると、自分の功績を誇ったり、自分のこれまでの経験をひけらかしたりするでしょう。「いまだ」は、約束のいまだであること、約束には成就がともなうことも忘れてはなりません。約束があるなら、必ずその成就も約束されているのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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