5月4日(日)「情報社会の功罪」説教要旨
箴言1:7 Tコリント8:1

  今日、情報化社会と言います。ではメディアとか情報というと、まず何を連想しますか。多分一番はコンピューターでしょう。そのコンピューターが出る前は何がメディアでしたか。テレビでしょう。その前は、ラジオ、そうです。ではその以前は、新聞でしょう。新聞は、ヨーロッパで一六六〇年にできたと言われます。
  ではその新聞のできる前は、何が情報、メディアでしたか。分かりますか。驚くべきものです。聖書です。

  聖書がどうして、情報でメディアなのでしょうか。聖書は、マルチン・ルターの聖書翻訳に始まりました。それまでは、聖書は手書きで、高価なもので、しかもラテン語で、書いてあって、民衆は誰も読めませんでした。ですから、民衆は、聖書で真理を知って信じるのでなく、ミサで、パンだけをいただきました。ブドウ酒は、司祭さんだけです。「知らしむべからず、よらしむべし」でした。
  そこで、ルターは、自らも聖書のローマ書で回心しましたから、聖書を夢中で読みました。そして聖書に真理があると悟りました。これは現代では当たりまえのことですが、当時は偉大な発見だったのです。
  法王庁は、ルターを敵視しました。民衆に聖書の真理を渡されのを恐れたのです。ウォルムスの会議で、ルターは叫びました。「われは聖書の上に立つ、そのほかは知らず。神、われを守りたまわん」と。こうしてルターは、カトリック教会とたもとを分かちました。しかし、帰り道には、法王からの刺客が待っていました。けれども、ザクセン侯の兵に守られ、ワルトブルクの城にかくまわれました。
  ここでしたことは、聖書の翻訳です。一年で新約聖書を訳しました。ルターの宗教改革のおよそ60年前、1450年ごろグーテンベルクは印刷術を発明し、最初に印刷したのは聖書でした。 こうして聖書はドイツ語で読め、印刷術の発展とともに、大量に印刷され、宗教改革を推進するのに役立ちました。

  まさに聖書こそ、最初の情報、メディアの最たるものです。それは真理を民衆のものにし、新しい世界、自由な世界を開くものでした。今でも、日本のような異教の国でも、聖書はたえずベストセラーなのです。
  今日のメディアも、たとえばコンピューターは、障害者や年寄りにとって、自分を孤独から解放してくれる便利なものです。またメディアは、民衆に真理を知らせ、情報を知らせ、多くのものを批判にさらし、上のものが勝手にできないようにします。「知らしむべからず、よらしむべし」でなく、知らせることは、民主化の第一歩であります。これこそメディアの最大の功績です。

  しかし、今日、メディアには罪また害の方が、大変多くなりました。それはなぜでしょうか。
  •  1 情報が多すぎる。過ぎたるは及ばざるがごとし。この膨大な情報を処理する能力が、人間の側に必要になります。それがなければ、情報は害を及ぼします。情報を処理するのは、情報に勝る知性と、判断力と勇気が必要です。情報に流されている人は、この知性と判断力、決断力が欠けているのです。

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  • 2 情報は産業化し、もうけのために利用されます、その時、都合のよい情報だけを流し、情報操作が行われます。真理であるべき知が、ひとつの産業となる、これがメディアの罪です。

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  • 3 ファミコン、コンピューター・ゲームの害。画像やその他、子供の未発達の脳を犯す。二つの問題があります。三歳前に、テレビや、ゲームに夢中になると、その脳が犯され、普通の判断力をもたずキレやすい子になるそうです。また情報が機械を通して入ることから、子供は画像を本物と間違える。無意味な殺人、暴力の温床は今日の異常に発達したメディアによることが多いのです。

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  • 4 人間が人間でなくなる、機械のひとこまとなる。コンピューターを使うのでなく、コンピューターに使われることになります。


  その根本は、コンピューターが、質を数に置き換える点にあるのです。その時、「名」が忘れられます。人間は、「私」は、多くの数の一つ、国民総背番号になります。しかし、私たちの神は名をもつ神で、また私たちを、その名で呼んでくださる神であります。神の名「ヤハウエ」は、「私はならんとするものになる」との意味です。常に変化し、私の状況に応じて、救ってくださる神です。しかし、コンピューターは、法則の世界、決定論的です。 「知識は人を誇らせ、愛は人の徳をたてる」、「神を恐れることが、知識の始まりである」。この今日の聖書を忘れないようにしましょう。  

  以上まとめて、メディアの発達の歴史を見ると、ラジオまでは、まだそれほど害はありませんでした。画像を通すメディア、テレビと共に、多くの害が起こりました。その原因は二つ、画像による害、利益のための放送の害であります。さらにコンピューターになると、画像プラス情報過多、さらに質から数への転換という害もあります。  

  そこでイエス・キリストのたとえ話が、情報社会の害に対する解決策を示しています。  
  • 1. 一匹の迷う羊は、名の信仰を示しています。個の大切さを教えています。

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  • 2. 放蕩息子のたとえは、金銭、物質の害と神の愛の勝利を教えています。

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  • 3. よきサマリア人のたとえは、この強盗に襲われた、コンピューター社会の害は隣人愛によって勝利します。これら三つのイエスのたとえは、今日のメディアの害に対する、正しい真理の道を示してあまりがあります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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