5月11日(日)「どうしたら聖霊を受けられるか」説教要旨


   今日はいろいろな人の経験、私自身の経験、また聖書の御言葉によって「聖霊」について語ります。皆さんはその中から、「聖霊とは何か」「どうしたら聖霊を受けられるか」を読み取ってください。

  第一に、伊達の教会にいた頃、夕礼拝に一人の求道者が、毎回来ました、初めてだったので説教は分りませんでした。しかし、それでもなお教会に通ってきました。彼は「キリストよりも先に聖霊が分かった」と言っていました。
  第二に、クリスチャン二代目の方、激しい聖霊の経験はないが、いつの間にか、キリストへと導かれていたと言いました。
  第三に、これらのことを説明する聖書の言葉は、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできない」(Tコリント12:3)であります。逆に言えば、イエス・キリストを救い主と信じている人は、聖霊を受けていることになります。聖書には、二つの聖霊経験があるようです。イエスがバプテスマを受けた時、「聖霊が鳩のようにくだりました」(マルコ1:10)。もう一つは、使徒行伝にでてくる、ペンテコステの記事、それは「炎のような聖霊」です。

   そこで私は生涯、二回激しい聖霊の経験をしました。
  一回はまだ中学生の時、洗礼を受けて後一年位、聖霊が分からなかった、ひたすら「回心記」を読んだ、しかし、それは駄目でした。ひたすら祈った、それ以外になかった。ある祈祷会に出ていた時、自分は罪深いと知った。神の高さ、きよさ、聖なる神に出会ったと言ってもよいでしょう。それが私の第一の聖霊経験です。
  もう一回は、キリスト教から離れて、からだが弱いため田舎に疎開していたとき、仏教とくに浄土真宗の親鸞の教えと、どう違うのかと悩みました。植村正久の『黒谷の上人伝』を読んだ時であります。十字架が示されました。いずれも激しい聖霊経験でした。

   聖霊は、しかし、その激しい経験ではありません。列王記上19:11に
  「主は言われた『出て、山の上で主の前に立ちなさい』。その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」
  とあります。激しさの後の静けさ、神の言葉こそ、聖霊の現臨です。
  私たちは炎とか鳩に捕らわれてはなりません。それらは物質であって、霊を象徴的に示しているにすぎません。また聖霊の体験、経験も過ぎ去ります。
  しかし、私は、あの体験をした、その時の霊は忘れることができません。「聖霊を所有しようと思うな、聖霊があなたのすべてを所有されます」(テン・ブーム)。そこでひっくりかえらなくてはならないのです。私→神へ、物、経験→聖霊そのものに、そうすれば、それが静かであるとか、激しいとかは問題でなくなるでしょう。神ご自身が、ほかならぬあなたに臨在する、天の高きにいます神、それは父です。地の低きに来る神それは子(キリスト)であります。しかし、あなたの中に来る神、それが聖霊にほかなりません。

   次に、聖書では、聖霊降臨、ペンテコステは、祈りと結びついています。「皆、心をあわせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒行伝1:14)。 「心をあわせて」、「ひたすら」です。
  そこで思い出すのが、ルカ福音書11章にあるたとえです。「友人だというのでは与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」(11:8)。
  なりふりかまわぬ強引さ。そこでは神様と友達顔しても駄目、初めて教会に来た人のようになって求めるのみ。そのたとえの最後は、「神は求めて来る者に、聖霊を賜わないことがあろうか」と結ばれています。「求めるー聖霊をいただく」です。「求めるー与えられる」は聖霊についても言えます。祈って、祈って、そして我を忘れる時、聖霊が動くです、私が動くのではない、
  祈りとは、神になりきること、私を忘れることです。私を捨てることです。「聖霊は、思いのまま吹く。風のように、いずこに行きいずこに去るか分かりません」(ヨハネ3:8)。
  私たちは聖霊を自由にすることはできません。しかし、聖霊を求めることはできます。皆さん、物のない時、金のない時、必死でそれを求めるでしょう。しかし、聖霊が不足していると言って、それを必死で求める人が、何人いるでしょうか。

  さらにローマ書には、異邦人(まだ神を知らない人)という言葉が、沢山でてきます。殊に「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである」(15:16)とあります。
  つまり、異邦人とは、キリストをまだ知らない人でしょう。その人びとが聖霊によってきよめられるのです。「それゆえ、わたしは、異邦人の中で、あなたに賛美をささげ、また御名をほめ歌う」(詩編18:49)。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(申命記32:43)、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」(詩編117:1)、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」(イザヤ11:10)。聖霊は異邦人と関係があります。未信者と関係あるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.