5月25日(日)「神のさばき」説教要旨
詩編130:3-4 マタイ7:1-6

  皆さんは、「さばき」というと何を連想しますか。 日常生活で、一番よく聞くのは、政治家が、裁判になると、「あれは、わいろを取ったさばきだ」と言います。
  しかし、イエスは、日常生活における「悪−罰」の考えについてこう言っています。
  「シロアムの塔が倒れたために押し殺されたあの十人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう』」(ルカ13:1-5)。
  「こういうことをしたから、こういうさばきを受けた、天網かいかい疎にして漏らさずだ」と言う人を、イエスは「それはひと事ではない、あなた自身の問題だ」といましめたのです。それは「神のさばき」ではなく、「人間のさばき」なっていないでしょうか。イエスは言います。
  「ひとをさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでろう。
  なぜ兄弟の目にある梁を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目に梁があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目からちりを取り除けるがよい。
  そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除けることができだろう」(マタイ7;1-5)。


  人間には、自分自身が見えないのが最大の欠点です。自分の目を見ることができず、自分の匂いに気づかず、人の匂いには敏感です。自分は信仰者だとうぬぼれて、正義のさばきをすると言って、ひとを批判するなら、それはその人と自分を分離する結果になるばかりでなく、キリストと自分を分離しているのです。
  キリストに従う者は、キリストと結びつきます。それはキリストが、私をさばかず、むしろ、私の罪を負ってくださたからにほかなりません。それで私たちも兄弟や隣人の観察者・批評家になるのでなく、兄弟の罪に対して、自分も責任を感じて、初めてその兄弟としっかりと結びつくのです。
  そうでないと、私たちはイエス・キリストの観察者になり、その結果、隣人をも微にいり細をうがって、観察し、批評家になるのです。責任もなければ、愛もありません。 私たちが、ひとをさばいていけないのは、自分がさばかれないためです。自分の量るその量りで自分にも量りかえされるのです。「ひとを呪わば穴二つ」です。

  しかし、イエスは、いかなる意味でも、人に忠告しても、ある判定をしてもいけないと言っているのではありません。
  その証拠に、ここで「人のちりを取り除ける」と言っています。ただ「まず第一に」、自分の中にある梁を取り除きなさい。そうしたらよく見えて、人の目にあるちりを取り除きうるというのです。
  その場合、自分の目にあるのは「梁」です。他人の目にあるのは「ちり」です。私たちは、自分の目にあるのは「ちり」で、他人の目にあるのは「梁」だと思い込んでいないでしょうか。
  違います、まず自分の目から「梁」を取り除かなければ、人の目にある「ちり」を取り除くことはできないのです。悔い改めなければならないのは、まず自分です。バルトは晩年刑務所で説教しました。その時、あそこで大切なのは、「皆さんは罪人」ではなく、「この説教している私も罪人です」と言うことです。そこには人の前の罪よりも、神の前の罪が大きいことが分かります。自分の罪を告白しない罪、自分を棚に上げている罪です。

  パウロも同じように言っています。 「誰に対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、
  『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』(レビ1918)
  と書いてあるからである。むしろ、
  『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。
  悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」。(ローマ12:16-21)


  敵と敵意とをわけなくていけません。「敵」がいることは人間の社会では仕方がありません。しかし、「敵意」は違います。敵意は信仰の敵です。「罪を憎んで、人を憎まず」です。
  悪に対して悪を、それは正しいことです。しかし、それは一見正義にみえて、おとし穴があります。悪に対して敵意をもつ時、私も悪の一人になるからです。
  神は「私が報復する」と言われます。「神に場所を与えなさい」。報復という人間的正義によって、神の場所をふさいではなりません。
  この点は、「思い煩い」も同じです。「あなたの正義は、神の場所ふさぎだ」と言われても仕方ない怒りが、沢山あります。
  Tコリント4:5には、「時に先だってさばきするな」とあります。それは神より早く走るなという意味です。最後に神の怒りはあります。しかし、それは十字架です。自己の善意や力で相手に勝とうとしてはなりません。「燃える炭火を積む」とは、聖霊の炎です。それは悪が跳梁する中で、神の正義とその勝利とを信じる信仰の点火する光にほかなりません。
  ですから、今、私たちは神に打ち勝たれた敵と交渉していることを、片時も忘れてはなりません。「われすでに世に勝てり」と言われ主が、そこにいらしゃっるのです。私が、私の弱い力で勝つのではありません。私たちは、すでに十字架において勝利した主と共にいることによって勝利するのであります。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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