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6月1日(日)「いいものはいい」説教要旨
ピリピ4:4-9 ローマ2:6-16
 「いいものはいい」という意味は、仏教であっても、イスラムであっても、「いいものはいい」という意味です。形式ではなく、内実が問題だということです。
 「悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、艱難と苦悩が与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、光栄とほまれと平安が与えられます。なぜなら神には、かたより見ることがないからです」(ローマ2:9)
 と言われています。
 私たちはふつう「教会(特殊恩寵)と社会(一般恩寵)」という二つの世界に住んでいます。雨や太陽を神は、正しい者にも、悪い者にも与えます。科学の世界は、信仰者とかに関係なく通用します。恋愛も結婚も一般恩寵です。経済、仕事、皆一般恩寵の世界です。
 しかし、一般恩寵の世界は、確かに「恵み」の世界ですが、罪に汚れています。そこで「特殊恩寵(キリスト)」が必要になってきます。
 バルトは、これをキリストを中心とした内心円(教会)と外心円(社会)にたとえました。それによるとこの世俗的世界もキリストが中心です、しかし、教会の外にある外心円です。聖書はただ内の(キリストという)特殊恩寵だけでなく、外の一般恩寵の世界の論理ももっています。
 ピリピ4:4以下で「喜び」というのは、すべての人にあてはまります。一般の人、クリスチャンにかかわらず「喜び」や「悲しみ」という感情は、自然の発露です。
 急に思わないお金が入った時など、ついうれしくなって、ニコニコしてしまいます。しかし、そのわたしたちの手にしている楽しいことが、状況の変化で悲惨な状態になると、すぐに悲しみに変わるのではないでしょうか。つまり、変転きわまりない世の中では、喜びも常住というわけにはゆかないのです。
 一般恩寵である「喜び」は、相対的弱さをもっています。そこでパウロは「いつも主にあって喜びなさい」と言っているのです。
 「いつも」です。それは回りの状況がたとい、うれしくない状況に変わったとしても、「常に喜びなさい」という意味です。ここにはわたしたちが、ふつう考えている「喜びなさい」と違った意味の、新しい喜びがあるのです。
 パウロ自身、決して喜ばしい状況にはありません。彼は牢屋に入っているのです。自由を奪われ、裁判にかけられ、ひょっとしたら、死刑になるかもしれないのです。そのような人が、今牢屋の中から、「いつも喜びなさい」と呼びかけているのです。その喜び、いつも、どんなに苦しいことがあっても喜べる、そのような喜びは、「主にあって喜ぶ」ことです。「キリストにあって」と同じです。つまり、一般恩寵(喜び)の中に特殊恩寵(キリスト)が入ってきます。
 これはただ「キリストが主であることを知って」という認識の問題ではありません。例えばどんなに苦しいことがあっても、キリストのご苦難を覚えて、耐え忍ぶとか、「キリストによって」力づけていただくということでもありません。
 「キリストにあって(in Christ)」のinは、「の中に」です。パウロは「キリストがわたしのうちにあって生きる」と申します。しかし、わたしが「キリストのうちにある」とも言えるのではないでしょうか。
 賛美歌三六一番に、「主にありてぞ、われは生くる、われ主に、主われにありて、やすし」とあります。つまりパウロの信仰によれば、わたしは「キリストの中に」存在している、それはただキリストを認識していることにとどまらず、存在の問題なのです。ちょうど孫悟空が、きんと雲にのって、何千里も走って、これで世界の外に出たと思った時、それはお釈迦様の手のひらの中であったと言うように、わたしたちは、どんなに苦しみを受けても、それは主イエス・キリストの外ではないのです。主のみ手の中にあるのです。
 ですから、ここの意味は、「あなたはその苦しみの中で、実はイエス・キリストの中にいるのです。だからこの主のゆえに喜びなさい」と言っているのではないでしょうか。イエスと共にいる、それこそ主にある喜びの源泉なのです。喜ぶという一般的世界の中にキリストがいるのです。いや世界がキリストの中にあるのです。あなたの仕事の世界(外心円)もその中心はキリストです。
 それで次に「あなたがたの広い心を、すべての人びとに知らせなさい。主は近い。何事も思い煩ってはなりません」と続くのです。
 「広い心」とは、「自己中心の攻撃的な気持ち」の正反対です。
 当時、教会は迫害の中にありました。その時、どうして喜べるでしょう。パウロは、ユダヤ人のねたみのために、あるいは異邦人のために、迫害を受けて、牢屋の中にいます。とても筆舌に尽くしがたい苦しみがあります。しかし、その牢の中もキリストの外ではありません。それゆえ、彼は牢の中で、神を賛美し、賛美歌を歌っていました(使徒行伝16:25)。
 その時、大きな地震があって、牢の扉が皆開けましたが、彼らは逃げるどころか、牢番の人を信仰に招き入れ、洗礼を授けました(使徒行伝16:32)。これこそ「広い心」にほかなりません。不当に牢屋に入れられたら、腹を立て、攻撃的になるのではありませんか。それは「狭い心」です。しかし、パウロは、そこで「主は近い」のだから、「広い心」をもちなさいと勧めました。「あなたの神は小さすぎはしませんか」。「ここも神の御国なれば」(賛美歌90)、外心円も神の国なのです。
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