6月15日(日)「召天者の名をおぼえて」説教要旨
イザヤ45:3-7 黙示録2:17

  「死」というものは、例外なくすべての人に来るものです。しかも、いつ来るか分かりませんし、それから逃れることは、誰もできません。
  「そして死の克服、死からの勝利は、宗教における最大の中心事です。死の克服は、「名」と関係あります。
  「今日の聖句には、「神さまが私の名を呼んでくださる」とあります。しかも、たとい私たちが、その神さまの名を知らなくても、いや、神はいないと無神論を唱えていても、神さまの側では、私の名を知っていて、私の名を呼んでくださるのです。
  つまり、神が私の名を呼ぶのは、私たちの側にある何かに目をつけて、それに応じて「私の名を呼ぶ」のではありません。たとえば、私たちで言えば、今、その人の助けを欲しいから、「誰々さん」と呼びます。しかし、その場合、本当にその人の名を呼んでいるのでなく、むしろ「お金」「物」等、自分に必要な物の名を呼んでいるのです。私たちが人の名を呼ぶのは、何か下心があってです。その人そのものを求めているのではありません。
  しかし、神は「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた」と言います。私たちの側に何もなくても、その愛のみ心から私の名を呼んでくださるのです。それは否定する者をも肯定する、絶対的肯定(真の愛)です。

   「名」とは何でしょうか。それは、「太郎」とか「花子」という、名前ではありません。名前は変えることができます。「名」とは名称のことではありません。世界中にたた一つしかない、私自身です。私の仕事なら、誰か代わりがあります。私の能力なら、それ以上の人がいます。しかし、私自身、それは世界にたった一つしかない、かけがえのないものです。
  ふつう仕事の世界や、社交、つきあいの世界では、人びとは他の人間をその能力とか、容姿とか、親戚関係とか、あるいは日本人であるとか、同郷の人だとか、その人をめぐる関係、環境、所有から見ています。ドストエフスキーは、その子がなくなった時、「あなたにはほかにも沢山お子様がいらゃしゃるではありませんか」と言った人に、「いや、私はあの子が欲しいのだ」と答えました。
  それです、「名」とは、この「名」を説明するのに、一番よいのは、「迷う一匹の羊のたとえ」です。九十九匹を野に残しておいて、羊飼いは、一匹を求めます、それは迷っていたからです。羊飼いは、その羊の何かの価値を求めていあるのではありません。九十九はコンピューター世界です。それは一から成り立っています。しかし、九十九というのは数であり固まりです。それは日本人とか、どこどこの会員といった集合です。

  ベンヤミンは失われた、死んだ人の名を覚えることが真理だと申しました。これこそ今日のコンピューター的数の世界を克服する唯一の真理です。「私たちうち誰一人自分のために生きる者はなく、誰一人自分のために死ぬ者はいない。私たちは生きるのも主のために生き、死ぬのも、主のために死ぬ、だから生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものなのである。なぜならイエス・キリストは死者と生者の主となるために、死んで生き返られたからである」(ローマ14:8-9)。ここで死者が、生者の先にあることに注意してください。生者は今、この世にあるのです。死者は今この世にいないのです。死者はこの世で何かをすることはできません。それは私たち生者の仕事です。死んだ者の名を覚えることです。それはその人の名前ではありません。単なる名称でもありません。その人自身、かけがえのないその人個人そのものを覚えるのです。その基礎には、キリストが死者と生者の主となるために死んでよみがえられた事実があるのです。キリストはその人を覚えただけでなく、その人の名のために死んでよみがえられた、その事実に基づいて、私たちは、今その人を覚えるのです。

   信仰のない人でも、「名」ということはわかるのでないでしょうか。「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた」。神が、彼らの名を呼ばれたのです。「あなた世に二つとないかけがえのない人だ」。こう言われる神を、あなたは否定することができますか。あなたは世界にただひとつ一人、掛け替えない人だと、言われる時、うつ病は消し飛ぶでしょう。教育の原理ももそこからくるのです。

   「わたしはどこに行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこに行って、あなたのみ前を逃れましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしがよみに床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右の手はわたしを支えられます。やみはわたしをおおい、わたしをかこむ光は夜となれとわたしが言っても、あなたにはやみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたにあやみも光も異なることはありません」(詩編139:7-12)。死とはやみの国ではありません。「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また白い石を与えよう。この石の 上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」(黙示録2:17)。 その新しい名とはイエス・キリストの名であります。そこではもはや暗さも光も異なることのない、真の光に照らされます。天国とは、一切のわざわいが幸いに変えられ、すべての否が、しかりに変えられ、闇がすべて光に変えられる、そのような世界です。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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