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6月22日(日)「ロゴス(言葉・知性)の意味」説教要旨
箴言1:7 ヨハネ1:1-14
 「初めに言葉あり」。
 「言葉」の原語はロゴスです。
しかし、もう一つ「知性」の意味があります。
 私たちにもし言葉がなかったら、どうでしょう。私たちは生きていても「物」であって、文化も育たなければ、教育も行われません。動物以下です。「言葉は存在の住みかです」(ハイデッカー)。
 存在そのものと言葉は結びついています。子供が生まれた時、言葉を覚えます。それは「パパ」とか「ママ」と言った呼びかけの言葉です。つまり対話の言葉が初めにあるのです。
 「言葉は神と共にあり」。
 神ご自身が、「共に」という対話の姿にあります。クリスマスの使信は、「インマヌエル、神われらと共に」です。言葉は、自己主張するためにではなく、人と話すためにあるのです。自己主張しても、実は人に聞いてもらいたいのです、つまり答えか質問を求めているのです。その意味で、自己主張も対話の一部です。
 すると言語とは、初めからキャッチボールのように、言葉が交わされ動くことを前提にしています。そのことは旧約聖書の言語であるヘブル語がよく表しています。
 ヘブル語の言語形式は、静的でなく動的です、
「平穏にして、より頼まば力をうべし」(イザヤ)と言います。「平穏」とは日本語では、波風の立たない静かな、何もない状態です。しかし、へブル語では、「平穏」とは、神の中に入る行為です。だから「力を得る」のです。「知る」という言葉も、知的概念的に知る意味は少なく、実際的に知るのです。だから「神をおそれるのは知識の初まりです」(箴言1:7)。
 「知る」が性交も表す場合さえあります(マタイ1:25)。シャローム(平和)も「よろず和をもって、貴しとなす」とは違って、ただ喧嘩しないことでなく、相争う者が、積極的に和解することです。また神の名はヤハウエ、それは「ありてあるもの」でなく、「私はならんとするものになる」と動的です。
 したがって、神は天高く超越しているのではありません。神は「ある」のでなく、「なる」のです。神ご自身が動的です。わしはあなたのようになりますよ、あなたの困窮のところにいますよの意味です。
 すると「言葉は肉体となる」はあと一歩です。 確かに信仰には「曰く、言い難し」という神秘の面があります。言葉にならない面です。私たちはよく、「それは聖霊を受けなければ、分からないよ」と言います。しかし、それはロゴス、言葉です、パウロは「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」(Ⅰコリント14:15)と語ります。そうとすれば、科学上の知性にも耐えるものが信仰です。
 もう一度言います。信仰は、神の秘義で、言葉にならない不思議な面があります。しかし、それは「不合理」であっても、「非合理」ではありません。知性に合致します。言葉で語れます。「知識は人を誇らせ。愛は人の徳を建てる」(Ⅰコリント8:1)。「私たちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である」(Ⅰコリント2:7)。
 こうパウロが言っているのは、その両面をよく表しています。すると、「このロゴスは、対話的に生きて語り、神の秘義を伝えるが、それは言葉となり説明できる、したがってそれは生き生きとして、私たちを変える」のです。
 なぜそうか?
 永遠の神が、この罪深い人間を救うには、神と人との深い淵を飛び越えなくてはなりません。この淵を飛び越える信仰は飛躍、賭け、冒険の面をもちます。
 ヨハネ福音書は言います。
 「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。すべてのものはこれによってできた。この言葉にいのちがあった。光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった。そして言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。父のひとり子の栄光であって、恵みとまことに満ちていた」
 「初めに言葉があった」のです。しかも対話の言葉が、神と共にある言葉が。
 唯物論者は言います、「初めに物質があった」と。ユダヤ教は「初めに神があった」と言います。仏教なら「初めに無があった」。
 しかし、「初めに言葉があった」とは、何とすばらしいことではないでしょうか。しかも、対話の姿にある神、三位一体の神があった、あなたを救うために、人となられる神があった。「すべてのものは、この対話なる愛の神によってできた」。
 だから「光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」だから、いかに暗いことがあっても、それは悪魔の勝利のしるしではなく、光が闇の中に輝いている証拠です。なぜなら、「その言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」、神は人となり、苦悩を受けなくてはならなかった。そこに十字架が立って、輝いています。
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