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6月29日(日)「倒れる者を支える主」説教要旨
箴言1:7 ヨハネ1:1-14
 「わたしの足がすべると思った時、主よ、あなたのいつくしみは、わたしを支えられました」(詩編94:18)。
 身体的な比喩で、私たちは人生の失敗・敗北の経験を言い表します。
 「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助け支えられるからである」(詩編37:23-24)。
 これら「倒れる」とか「転ぶ」とは、人生で「失敗し、ぎゅうの音もでない」状態になることです。
「すべる」のも「倒れる」のも「転ぶ」のも、この地上です。私たちはこの地上で人生を歩んでいます。
地上だから失敗し、倒れるのです。天上や空中ならそういうことはないでしょう。
 しかし、「わたしの足がすべると思った時、主よ、あなたのいつくしみは、わたしを支えられました」。
 その地上で倒れる時、地上のものでない力、地上のものでない御手を経験します。それはこの地上で経験するのです。
 しかし、私の力でもない、誰かほかの人の力でもない、上からとしか言いようがない力が、私を支えるのです。
それは信仰において、神から来る力です。聖霊の力、恵みの力と言ってもいいでしょう。
 私たちは人生において一度や二度、そういう経験があるはずです。
そのことは、転ばないと分かりません。転ぶこと、すべることも神の恵みのうちです。「転ばぬ先の杖」ではありません。
それでは、人生において何の失敗も敗北も経験せず。同時に神の恵みも経験しないことになります。
 教育する親は「転ばぬ先の杖」を考えます。しかし、それは真の教育ではありません。「転ぶことが杖」なのです。
人は転ぶことを通して学びます。常勝将軍のように人生を送ることはできません。
必ず失敗し、落ち込み悩むのです。その時です、「神のいつくしみが私を支える」のは。
 信仰の経験は、人生の失敗と背中合わせです。
 「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。
あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道を備えてくださるのである」
(Ⅰコリント10:12-13)。
 「世の常」と訳してある言葉の原語は、「人間的なもの」です。それは、「人間なら誰でも出会う、普通の出来事」と言う意味です。
非常な苦しみの中にある人は、「自分の苦しみは誰にも分からない」と自分の苦しみを特殊化します。
確かに試練は、人間的どころか、スーパーマン的力をもっています。その前に弱い人間はひとたまりもありません。それほど苦しみは悪魔的です。
 けれども悪魔の働くのは十日間にすぎません。
 「見よ、悪魔があなたがたのうちある者をためすために獄にいれようとしています。
あなたがたは十日の間苦難にあうでしょう。しかし、死にいたるまで忠実でありなさい」(黙示録二・一〇)。
そう記されています。つまり十一日目には、あなたは解決のきざしを見るのです。
 しかし、ある人は言うでしょう。「十日どころではありません。私はもう一年も二年も苦しんでいるのです」と。
十日とは、きっかり十日という意味ではありません。その苦しみには、限りがあるという意味です。「
神は八方をふさがれる時、天の窓を開けておられます」。その苦しみの限界を知る時に、人は、天の窓の開かれるのを経験しないでしょうか。
 「試み」(こころみ)とは、神が私たちの心を見るのだと言います。私たちが本当に神に従っているのかどうか、神は私たちの心を見るのです。
 そうとすれば、試練は人間的どころか、神的ではないでしょうか。そうです、だから次に「神は真実です」と続くのです。
試みは、現象として見たらば人間的なものにすぎません。しかし、その本質は神的なものなのです。
その試みを通して、私たちは「神は真実です」との信仰に到達するのです。
 私たちは表面的にだけ見てはなりません。その表面の、もう一つ奥底をごらんなさい。恵みがつまっていますよ。
逆に言えば、試みはすべて神的だから、「神は真実」だから、この世に耐え得ぬ試みはないのです。
 ここには出エジプトのことが書かかれています。イスラエルの民は、エジプトからの脱出は解放であって、
乳と蜜の流れる豊かな地へ導かれるものとばかり思っていました。ところが導かれたところは荒野でした。
ほとんど植物も水もなく、ただ岩ばかりごろごろしているところでした。
 私たちもまた、あてがはずれることがないでしょうか。信仰の道は、常に平坦とはかぎりません。山あり谷あり、川あり、苦しみを通して、
わたしたちは神の御国に到達するのです。
 けれども、そこは苦しみばかりではありません。
 岩から水がでました。天からマナが降ってきました。試みで、私たちが駄目になりそうな時にかぎって、驚くばかりの、天からの助けが与えられるのです。
「わたしの足がすべると言った時、見よ、あなたのいつくしみはわたしを支えられました」。
 ところが人びとは、その助けを信じず、神を試みました。
「また彼らのある者がしたように、キリストを試みてはなりません」。
なぜなら、その神の助けはそのつど与えられるからです。
 神は三年も前に、必要なものをお与えになりません。
それは与えるのが人間ではなく、主なる神であることが、明かになるためです。とかく私たちは、いつも神を見ているのです、
それは信仰者ではなく、傍観者にすぎません。私たちは友人の言うことが本当かどうか、試して見るようなことをしたなら、
それは友人を疑っていることにならないでしょうか。
愛とか、信仰は、相手と自分の間に、第三のものを差し挟まないのです。わたしたちは愛情を試してみるのではなく、見ずして信じるのでなくては、
本当に愛や信仰があるとは言えないでしょう。
 神を試みるとは、神を信じることの反対です。「君の言うことは、私には確かでないが、君の言うことを信じよう」と、
真の友情は言うのではないでしょうか。
 どんな時でも私たちを支えるもの、それは神の真実です。
「神は真実です。 あなたがたに不可能な試みに会わせることはありません。それどころか試みとともに、耐えることができる逃れ道を備えてくださいます」。
 アウシュヴィッツの全く悪魔的な試みの後、生き残った人について、「このような経験をしたからには、この世で、神のほか何物も恐れるものはないという、
不思議な感情が人びとを支配した」と、有名なフランクルは書いています。
 神の真実は、人間に耐えぬほどの試みには合わせたまわないのです。その逃れ道は、試練と同時に与えられるのです。
 「神は真実です。 あなたがたに不可能な試みに会わせることはありません。それどころか試みとともに、耐えることができる逃れ道を備えてくださいます」。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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