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7月2日(日)「神・無・愛」説教要旨
ピリピ2:1-11
 Ⅰ 阿部正雄という、私の尊敬する仏教哲学者がいます。
 この人の主張の特色は、ピリピ2:7の「神は、神であることを固守すべきと思わず、自分を無にして」という言葉を取り上げて、神は無になった、それは神の愛からである。すると神=無=愛という図式が成り立つ、この無から仏教との関係を論じます。
 「神は愛、なぜなら神は無だから、無は神、なぜなら無は愛だから」というものです。
 仏教の「空(Sunyata)」 は、自己の存在の外でも内でもない、内在でも超越でもない、空は完全にすべてのものを、自分を含めて空とする、いわば絶対的空の純粋な行為が真の空。空に積極的意味が五つあると言います。
- 1 自分と他、人間と自然を区別せず、あるがまま(如来)です。それは誤解されるように、人間の人格的特異性を無視することではない。仏教は支配者としての神をもちません。
- 2 空は無限の開放性で、特別な固定した中心をもちません。支配-隷属の関係を世界のどこにももちません。
- 3 空は自然(じねん)「そのあるがまま」、それゆえあらゆる意志を越えています。
- 4 空において相互の依存、相互の浸透、相互の逆対応が実現します。
- 5 最も重要なのは、空は「知恵」と「慈悲」を含んでいる、その光のもとに万物の真如が区別と同一において実現します。
以上に対する批判
1 空において分別的理性つまり科学との関係、合理性との関係はどうなりますか。
2 もし善悪、正不正が相互浸透、逆対応なら、倫理道徳はどうなりますか。
3 もし過去と未来が相互浸透するなら、歴史はどうして発生するのですか。
以上に対する答え
1 空は達成された目標でなく、出発する基盤です。
2 空はすべてをあるがままに生かすのです。
 これは優れた空の新しい積極的理解で、すばらしいと思います。
 Ⅱ キリスト教的に理解すると、神は三位一体です、己れを無にしたのは、キリストで、子なる神です、その時、神そのものが無になった訳ではありません。ですから、イエス・キリストは自分を無にした時、行為します。つまり人間になります。
 無は、神の「なる」行為です、「ある」状態ではありません。人間の姿になられた、しかも、僕になられた。それは十字架を表します。十字架はまさに自分を無にした行為です。
 そしてこの事の前に、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれたものとしなさい」と、私たち人間の謙虚な行為が問題になり、それに続いて、「キリストは神のみかたちでしたが、神と等しくあることを、固守しようとは思わず、かえって、ご自身を無にして、僕のかたちを取り、人間の姿になりました。人のかたちで現れ、ご自身を低くして、死に至るまで、十字架の死に至るまで、従いました」。
 これがキリストの謙遜(ケノーシス)です。謙虚は手段や方法ではありません。謙遜こそ神の本当の現実的な姿です。私たちはふつう「天にましますわれらの父」と言って、神を天の高みにおられるお方と考えがちです。けれど、神のかたちにいましたキリストが、「神と等しくあることを、固守しようとは思わず、かえって、ご自身を無にして、僕のかたちを取り、人間の姿になった」のです。
 それは「神は本当は高いところにおられるのですが、一時、臨時停車みたいに、地上に降りてきた」というのではありません。そうではなく、ここにこの低さにこそ、神の本当の姿があるのです。イエスは十字架から飛び降りて、「神の子なるぞ」と叫んだのではありません。
 むしろ反対に十字架の上で「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、徹底的にその低さを貫き通しました。つまり「無」を貫きました。ここにこそ、愛なる神の第一の姿があるのです。ベツレヘムの馬小屋で人となられ、取税人、罪人、病人たちの友となり、いつも苦しみ悩む人びとといっしょにいらして、十字架の上で全人類の苦悩を負われた、そこに神の真の姿があるのです。
 ルターは言いました、「全世界も包みきれないお方が、今マリアのひざに横たわっている。この方は小さく幼児となられたが、ただこの方が全世界を包んでおられる」と。
 ここには惨めな死のみがあるのではありません。そこには真の勝利が語られています。しかし、勝利は、神のこの低さの続編とか、第二編といったものではありません。聖書は告げます。「・・・死に至るまで、十字架の死に至るまで、従いました。それゆえ、神はまた彼を高く上げ、すべての名にまさる御名をお与えになりました」と記されています。
 今時代はニヒリズムであります。しかし、恐れることはありません。悩むこともありません。その神の子が、自ら「無」を引き受けられたのです。これ以外に今日のニヒリズムを克服する道はありません。
 イエスはそのように自分を低く、小さくされました。そして十字架にかけられ、死ぬまで、神の愛のみ旨に生きました。「血潮したたる主のみかしら、刺にさされし主のみかしら、悩みと恥にやつれし主を、われはかしこみ、君と仰ぐ」(賛美歌136番)。このイエスこそ真の勝利者だったのです。イエスは低き愛において勝利したのです。そこでわたしたちは、このイエスを真の勝利者としてこころから賛美するのです。
阿部の仏教は、「神=無=愛」は、空につながり、人間を自由にし、あらゆる捕らわれから解放します。キリスト教は 「神=無=愛」から、神の自己謙虚を読み取り、十字架の愛の信仰に至り、「名」に到達します。
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