7月13日(日)「人類に未来はあるのか」説教要旨
イザヤ65:17-25 黙示録21:1-4

  Ⅰ 「人類に未来はあるのか?」この問いは、今日、誰の心の中にもある問いです。事を簡単にするために、問題を三つにしぼります。   
  • 1 地球温暖化(エコロジー)および大災害の問題
      北極の氷が解け、水位が増し陸地がなくなる、巨大な嵐が起こる、その反面水不足、逆に洪水、日照干ばつ が起こります。このような異常気象の結果、食糧不足です。
  •  

  • 2 簡単に理由もなく人を選ばず、大量に人を殺す(この間の秋葉原の例)。


  • 3 各官庁、学校、裁判官、警察、政治家の、また一般的な倫理感の欠如

  これらの問題は理性的に解決できると思います。それは信仰的終末論の問題ではありません。キリストは、「それらは起こらねばならないが、まだ終わりではない、産みの苦しみの初めである」(マルコ13:7)と言っています。では本当に理性で解決できるのでしょうか。  

  • 1の解決法、
      a 燃料電池(水素と酸素とからエネルギーをだす、すでに東京電力で1982年から実験、各国で燃料電池の自動車もできている)。
      b 核融合(ウランのように重い原子が分裂してエネルギーを出すのを核分裂と言う。水素やヘリウムのように軽い原子が融合して(太陽と同じ)エネルギーが2030年にはできる、それは核分裂のような問題は起こらない)、
      c 太陽発電、
      d 潮の満ち干での発電、
      e 風力発電、
      f CO2を石油のとった跡に、ある種の微生物といっしょにするとメタンガスがとれ、新しいエネルギとなる一石二鳥の方法。


  • 2は、テレビ、携帯電話、コンピューター、ファミコン、テレビゲームの影響です。それは二つあります。
      a 画像と現実を混同する。
      b 電気的に脳が犯される。これについては、石川県野々市町で「プロジェクトk」,中学校で携帯電話をへらしたらいじめが少なくなったという統計があります。


  • 3は、キリスト教が行き渡れば少なくなります(ドイツとの比較)。

  •   しかし、これらのことを実現する場合、世界の国々が協調する必要があります。そのため戦争をなくさねばなりません。すると軍備費は少なくてすみ、それを環境問題にまわすことも可能です。方法は理性的ですが、しかし、それができるか否かは信仰の課題です。  


      Ⅱ それとは別に、ここに絶対的問題があります。それは人間の倫理的態度と関係のない、太陽がそのエネルギーを失うとか、地球が星と衝突し崩壊する等の人類の滅亡のシナリオです。これは宇宙の寿命のようなもので、人力や知性でどうにもならないものです。
      それは宇宙の終末を、人間の終末(死)と比較して考えるとよく分かります。人は死にます。それも病気や事故で死ぬ場合と、天寿を全うして召される場合とがあります。人間の病気、事故は、宇宙では上に述べたⅠの問題と考えられます。病気には医学的に、知性で対処することが可能です。しかし、それでもなお、人は125歳以上は生きられない、これは天寿(神の与える寿命)です。それと同じように、宇宙・人類にも天寿があります。 

      多宇宙論といって今ある宇宙のほかに、どこかに別な宇宙があるという考えがあります。それは可能性としてはあっても、現実には存在しないでしょう。
      しかし、空間的でなく、これを時間的に引き伸ばして、将来的には存在しえます。イザヤの予言、ヨハネ黙示録の予言を見てください。輪廻とか「永劫回帰」とかは、相対的なものの延長で、仏教でも「輪廻」は迷いと見ています。聖書では、来るべき世界は、輪廻でも、永劫回帰でもなく、相対の延長でなく、全く新しい絶対的な世界、神の世界が現れることを言うのです。

      したがってキリスト教で終末論とは、ただ終わりについての教えだけではありません。今、現在の生、実存とかかわりあっています。
      「見よ、われは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」イエスは言います(マタイ28:20)、
      キリストの復活のからだには、十字架の傷痕がありました。
      「共に」、それは愛であります。愛はただ人間の間だけではありません。物質にも、動物植物におよびます。宇宙的な「共に」の真理です。
      イザヤは終末の様をこう描いています、
      「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは小山羊と共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子とは共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳飲み子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼ら、わが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ11:6-9)。

      三位一体の真理も、対話する神、「共に」います神であります。それは「愛」と言い換えることができます。「神は愛である」とは、「共に」います神であります。初めにいたお方は、終わりにもいます。創造されたお方は、また完成してくださるお方でもあります。たといその途中で、私たちが疲れ果て、倒れ、飢え渇いたとしても、初めであるお方は、必ず終わりにも「共に」おられます。
      私たちはこの地上で、その小さな光を輝かしてゆくことが大切です。それはやがて、神が輝かす大きな光を指し示しているからです。来るべき国が「共に」であるとすれば、この今ある地上の真理も、「共に」であります。
      「走れ、兄弟よ、君たちの道を、勝利に向かう勇士のように胸躍らせて。抱き合うがよい、幾百万の人びとよ、このくちづけを全世界に贈ろう。兄弟よ、星のきらめく天空のかなたに、必ずやひとりの慕わしい御父がおられる。ひざまづいているか、幾百万の人びとよ。造り主の存在を予感するか、世界よ、その方を星のかなたにたずねるがよい。星々のかなたに必ずやその方はおられる」(ベートーベン第九「歓喜の歌」)
    ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
       


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