7月20日(日)「大胆に罪を犯せ」説教要旨
ローマ3:21-26

   ルターは「信仰のみ」と言いました。「のみ」と言うのは、「それだけ」ということではありません、すべてを包含する意味の「のみ」です。
  職業について、ルターは聖と俗を別けません。この世の職業も「神の召し」によるのです。この世の仕事で、神の栄光を表すのです。しかし、罪にぶつかるから、それはうまく行きません。第一に自分の罪、第二に他人の罪、。第三に仕事にまつわる罪です。
  この三つの罪に囲まれているのが、この世の職業生活です。仕事をする時、罪は必然的にあります。にもかかわらず、そこを神の召しの場と考える時、矛盾が生じます。
  その時、「大胆に罪を犯せ、しかしてより大胆に信じ、神をあがめよ」というルターの言葉が、現実味を帯びてきます。大切なことは、仕事を遂行することです。ルターは、自分のへそばかり見ている信仰は、自己中心で駄目だと言っています。自分ではなく「神を見なさい」、その時、すべての力は神から来ます。それが神をあがめる信仰から出てきたことなら、大胆であれ、恐れるな、神はあなたを守りたもうでしょう。

  仕事は、宗教の外かも知れません。しかし、神の外でしょうか。この世の仕事も、神の御手に導かれているのではないでしょうか。仕事で悩みがあった時、聖書の言葉で導かれることはないでしょうか。
  仕事は、確かに教会の外です。しかし、決して神の外、キリストの外、聖霊の導きの外ではありません。
  しかし、自分の個人の利益だけにきゅうきゅうとしている仕事は、決して、「神の召し」とは言えません。「人を相手とせず、天を相手とせよ」と、西郷は言いました。あなたの目標、あなたの意図、それが神のものであるなら、罪を恐れるな、神のゆるしを信じなさい。
  けれども、それは自己一身の利益だけを事としている事業に、神の助けを期待することではありません。ある事業に詳しい長老さんは、「事業にも、あくどいやくざなどと結びつく儲け主義のものと、正しく利益を追求している事業とがある。前者は、真の事業家には相手にされない」と言っていました。
  あなたは、自分の御身大切な、利己主義の塊か、それとも他者に仕える仕事か、もし他者のための仕事なら、恐れるな、その時、大切なことは、より大胆に信じらることができるか、そこで神をあがめることができるか、そこにあります。

  自分の仕事は、家族を養うためのものです。他者のためだから良いです。
  しかし、あなたは仕事をただ家族を養うためにだけしているのですか。仕事とは、読んで字のごとく、「仕える事」です。誰に、他者に、世の中に、世界に、その「共に」がなくなったら、仕事はエゴイズムになります。他者と「共に」、世界と「共に」、そのことがはっきりしていれば、神は必ずあなたと「共に」おられます。
  人びとと「共に」、それが神われと「共に」につながります。利己一点張りの仕事は、決してうまくゆきません。「共に」がありません。社会性をもたない仕事は滅びます、しかし、世界と「共に」、社会と「共に」である時、あなたは、神と「共に」を信じてよろしい。仕事の世界で、キリストと「共に」を信じてよろしい。

  次にあなたの仕事の方向はどうでしょう。神と隣人に向かっている方向でしょうか。それとも自分とその利益にだけ向かっている方向でしょうか。
  前者であれば、そこに多くの罪を乗り越えなくてはならない時、より大胆に信じることができます。この信仰が大切なのです。パウロは、「すべて信仰によらないことは罪である」(ローマ14:23)と言っております。
  「ただ信仰のみ」とルターが言ったことは、教会とキリスト教あれば、後は何もいらないというのではなく、その信仰は、仕事を貫いていると言っているのです。その方向が大切です。その方向さえ間違っていなかったなら、「より大胆に信じられるのです」。その時、不思議に罪深い仕事から、神の栄光が現れるのです。
  今日の聖書は言います、
  「「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:21)。

  その時、罪の場でさえ、信仰のみが貫いているのです。
  キリストのたとえに「毒麦のたとえ」があります。僕は毒麦を抜きましょうかと言います。しかし、イエスは「良い麦も共に抜くことになるから、収穫までそのままにしておきなさい」と申します。毒麦を抜くことは、収穫の時、収穫の主が、してくださることです。「信仰のみ」とは、そこで神の浄化の力を信じるのです。
  あなたは任せるべきものを、神に任せなさい。神は、イエス・キリストにおいて、「罪にもかかわらず、私を信じてくださった」。「罪を信じたのでなく」、「罪人を信じてくださった」のです。
  「大胆に罪を犯せ」は、「罪にもかかわらず、信じよ」の意味です。罪を奨励しているのでありません。神はその中にもいます、罪のただ中にもいます。そのことを信じなさい。 信仰とは潔癖症のことではありません。良心的な道徳家になることでもありません。罪ゆるされた罪人になることであります。ルターの言葉に、「キリスト者ほど大きな罪人はいない」というのがあります。それが恵みの大きさということではないでしょうか。「あなたの神は、小さすぎます」
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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