7月27日(日)「歴史の信仰」説教要旨
出エジプト3:13-17 ヘブル11:8-15

  キリスト教信仰は歴史的信仰です。それは次のような「心の信仰・実存的信仰」と比べると違いが分かります。確かに聖書には、この二つがあります。パウロは、「キリストが私のうちにあって生きている」と言う、今ここでの信仰を述べています。そのような「実存的信仰」も真実ですが、それだけではキリスト教信仰は言い尽くされません。
  私たちの信仰は歴史的です。イエスは紀元元年ベツレヘムで生まれ、紀元三十年ころエルサレムで十字架につけられ、三日目によみがえりました。私たちの信仰には歴史的日付があります。こうして「心の信仰、実存的信仰」と「歴史的信仰」とは車の両輪です。

  出エジプト三章でモーセは、神に「あなたの名は何ですか」と聞いています。「わたしは有って有るもの」と言う答えですが、それは、「私はならんとするものになる」の意味です。ただ存在する神、天にましますだけでなく、このイスラエルの苦悩の歴史と共にあって、「なる」神であります。
  それを私たちの信仰の生涯にあてはめれば、私の苦悩の歴史の中に入り込んで、その中に来てくださる神、それが歴史的神です。ヘブル書の方でも、「アブラハムは受け継ぐべき地に、出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行くところを知らずして出て行った」とあり、まさに歴史的な信仰で日付があります。心の中だけでなく、心の中も含めて、私たちの生涯の歴史の中に生きて働く歴史の神であります。魂の救い主であるばかりでなく、私たちの生活そのものの救い主です。「がまぐちの中の神」、「台所の神」であります。
  イスラエルの民に、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、生活を導かれるのです。生活の中に変化、奇跡が起ります。これを信じなければ、歴史的信仰ではないでしょう。

  聖書には、出エジプトやバビロニア捕囚という救済の歴史的事件があります。
  バビロニアの時には、イザヤ書の四十章以下に書いてあるように、ペルシアのクロス王に解放されました。聖書ではクロスを救世主(メシア)とさえ呼んでいます。「わたしはわが受膏者クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ」(イザヤ45:1)とあります。
  このように神は、歴史の中で救ってくださるのです。私たちで言えば、敗戦です。アメリカ軍がきて支配したのですが、私たち民衆には、敗戦は解放でした。天皇は神でなく、軍閥もなくなり、自由になり、教会に来る人は増えました。まさに歴史的救済でした。

  ヘブル書には「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか」(ヘブル12:1)と、迫害の中で、戦っている信徒のために、多くの旧約聖書の信仰の人びとの模範例を引いて、信仰は希望であることを勧めました。
  しかし、ここで一転して、その苦難は、神の愛の訓練であることを記します。しかし、「艱難汝を玉にす」という日本のことわざのように、艱難そのものが、価値のある玉だというのでなく、あのアブラハム以来戦ってきた信仰の人びとの最後に、旧約聖書の成就であり、救い主として、その完成者として現れたお方、イエス・キリストをこそ見つめることの必要を説きます。
  私たちは、ふつう十字架のイエスとその復活というと、後ろ向に過去を中心に考えます。しかし、ここでは、今の私たちの信仰を導き、さらに完成してくださる、歴史的な救い主が述べられます。そこには、導き、完成する、将来が考えられています。

  これが歴史的信仰です。信仰の歩みは、長距離競走です。しかも、障害物競走です。マラソン選手が、苦しくなって途中で脱落するように、信仰の競争でも、意気阻喪して脱落者が出ないとはかぎりません。わたしたちの悪い点は、この自分にからみつく罪を忘れることです。
  しかし、罪に気づくことは、罪にとらわれることではありません。その時、もっと大切なことは、自分を見ないで、また周りの人や、直面する苦難を見ないで、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見る」ことです。
  わたしたちの中に、信仰を始めてくださったお方は、またそれを完成してくださるお方です。キリストが「導き手であり完成者」であるからといって、わたしたちが怠けて、「神がしてくださる」ではいけません。神の働きと導きは、わたしたちが働くよう働きかけてくださるのです。天候は人間の業でなく、神の業です。それでも神が良い天気を与えてくださると、「今日こそ、良い仕事ができる」と、農夫は一生懸命働き始めるでしょう。

  しかし、自分を見ないで、自分の能力とか、知恵を見ないで、ひたすら、完成者であるイエスを仰ぎ見るのです。 神のなさりようは、後になってよく分かります。その深い意味は、かなり後年になって、「そうだったのか」と、神の深いはかりごとに手をたたき、うならせられることがしばしばです。
  今その時、分かるほどのことは、その場かぎりのことで、神の深い救いとのつながりが薄いのです。

  わたしは、若いころ小学校の教師をしたことがあります。今で言えば、学級崩壊よろしく、山村の子供たちは、二十そこらの若い教師には手に負えない始末でした。教頭先生が、自宅にわたしを呼んでごちそうし、「教育は十年先を見てみなければ、分かりませんよ。今、手に負えない子供も、案外、十年後、先生の真実の教育的格闘を知って、感謝する場合がありますから」と言ってくれました。 「教育は十年後」、この言葉を忘れることができません。
  歴史的信仰は、十年後を見るのです。いまの瞬間だけではありません。十年後です。神の教育はそれどころではありません。神の訓練は、それにひきかえ、永遠の意味を与えます。短い時間で考える時、苦しみ悲しみでしかないものに、別な深みが出てきます。
  わたしたちは、最初は反抗し、嫌い、文句をつけ、不平をならしていても、それこそが、わたしを救い、力づけ、神の国に至らせる大切な道であることが分かります。それがイエスが導き、完成させる歴史です。十年後、教会もそうです。子供もそうです。しかし、十年後は、今あなたがどう生きるかにかかっています、その意味で、歴史的信仰はまた実存的心の信仰でもあるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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