8月3日(日)「とりなし」説教要旨
イザヤ53:11-12 ローマ8:26-28

    祈祷会の祈りを聞いていると、ほとんど自分のために祈る人は少なく、全部他者のためのとりなしを祈っています。
   しかし、自分一人で祈る時は、どうでしょう。自分のための祈りと他者のためのとりなしと二つが混合しているのではないでしょうか。
   ヤコブ書に、「あなたがたの中に苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい」、これは自分のためのふつうの祈りですが、続いて「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい」(ヤコブ5:13以下)とあります。こちらは他者のためのとりなしの祈りです。
   またテモテでは、「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人びとのために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とをささげなさい」(Ⅰテモテ2:1)とあります。「すべての」ということが大切です。
   「すべてのことの第一に勧められるのは」、また「すべての人びとのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげる」こととあります。「祈りは、愛と同じように包括的で広く、愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるほど限界がありません」(Ⅰコリント13:4)。パウロ自身、ユダヤ人、異邦人のわくを取り払いました。「わたしはすべての人に対して自由ですが、さらに多くの人を得るために、自分自身すべての人の僕になりました」(Ⅰコリント9:19以下)。

   キリスト教的、「願いや祈り」は、決して自己中心ではありません。「すでに得たり」という、向こう側があります。聞き届けてくださる、主、神がおられます。ですから、のれん圧しではありません。
   このように祈りとは、神との深い対話にほかなりません。このことが、ふつう日本での願い事やお百度参りなどと違う点です。しかし、「とりなし」というと、自己中心でなく、他者中心です。他人のために代わって祈ることです。「とりなし」は、祈りの中でも、とりわけ重要な祈りです。感謝や願いは、個人的に祈る場合が多くても、とりなしだけは、自分自身を離れて、他の人のために祈るからです。「すべての人のために」、つまり全世界が祈りの対象なのです。敵でさえも、その祈りの中に包み込まれるのです。
   十字架の上で、「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが、分からないのですから」と祈られたイエス、は、とりなしの祈りの模範です。たとい宣教の場が奪われても、祈りの手段が残っています。両の手をがんじがらめにされて、牢獄につながれても、「とりなし」の祈りができない事態はありません。処刑の寸前まで、静かに、自分を処刑する人びとのために祈る祈りこそ、信仰の勝利の証しでないでしょうか。死の病の床にあっても、祈りはできます。 
   さてテモテ書には、「神は、すべての人が救われて、真理の知識に至ることを望んでおられます。というわけは、神はただひとりであり、神と人との仲保者もただひとり、それは人なるキリスト・イエスです。彼は、すべての人のあがないとして、ご自身を与えました」(Ⅰテモテ2:4-5)。神がすべての人を救おうとされているのに、私たちがあきらめてよいでしょうか。旧約聖書の中には、少数がすべての人を代表するという考えがあります。
   たとえば、創世記18:22以下で、アブラハムは、悪と非道の町、ソドム、ゴモラのために神に願いました。そこに甥のロトがいるからです。「あの町に五十人の正しい人がいたら、それでも滅ぼされるのですか」と聞きます。その人数は十人にまで値下げされます。しかし、神は「あの町に十人の正しい人がいたなら、その十人のために、滅ぼさないであろう」と約束されます。これが代理の考えです。
   この代理の考えが、極致に達するのは、十字架のイエス・キリストにおいてです。神はこの一人の神の子のゆえに、全人類を滅ぼさないのです。「一人がすべての人」、それはこのテモテ書にも現れています。神が一人であり、「神と人との仲保者もただひとりです。それは人なるキリスト・イエスです」。このひとりには、すべての人が含まれるのです。「クリストは『万人の鏡』である。『万人の鏡』と云う意味は万人のクリストに倣えと云うのではない、たった一人のクリストの中に万人の彼等自身を発見するからである」(芥川龍之介)。
   一人のキリストは、すべての人を目指しています。ですから、「神は、すべての人が救われて、真理の知識に至ることを望んでおられます」。神が一人で、その仲保者キリストもひとりであることは、すべての人が救われることの証しなのです。だからとりなしの祈りは、あなた一人が、すべての人、すべてのものを含んでいるのです。とりなしとは、神もキリストもただ一人、だからその一人がすべてを包む、そのことの現れなのです。テモテ書の「すべての」という考えは、「神がお造りになったものは、すべて皆よいもので、感謝して受ける時、捨てるべきものがない」(4:4)という言葉にも現れています。わたしたちは、ここに非常に大きな神の経綸を見る思いがいたします。

   私は最近、杉原千畝、コルベ神父、キング牧師の伝記を読みました。それはその時、その時の聖霊のとりなしを受けたのではないでしょうか。この三人は、国はみな違います。
   しかし、共通していることは、愛です。愛のために、命を捨てたのです。ロシア正教・カトリック・プロテスタントと違いますが、全部クリスチャンです。キリストに仕えた人です。そして国境、民族を越えた人です。他者のために、自分を捨てた人です。そして気づくことは、彼ら自分では語らないのに、永遠に語り継がれることです。とりなしとは、この神の永遠の愛を信じ、今、このとき、神の和解を信じ、聖霊のとりなしを信じ、その人のために、特に苦しんでいる人のために祈りを始めることです。愛が永遠であるように、そのような愛に基づいたとりなしは、永遠に続きます。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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