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8月10日(日)「不安の時代の救い」説教要旨
イザヤ66:10-13 ヨハネ16:19-24
  不安と恐怖は違います。恐怖とは、獣や泥棒に出会うように、ある対象に恐怖感をいだくので、その対象がなくなれば、また平穏に戻ります。しかし、「不安」には直接対象はない、なんとなく不安になる、たとえば「時代の不安」です。
  それはいろいろありますが、まず「死の不安」です。戦争や原爆を恐れるのも死の不安でした。今日の時代では、非常にいろいろなものが不安定で、確定できない、「不確定性の不安」です。時代を象徴するコンピューターは、すべてを計算しつくすようですが、不安を克服するプログラムありません。かえってコンピューター思考そのものが、不安を生みだします。
  イザヤは言います「シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。・・・主は言われる。『私は産ませる者なのに胎をとざすであろうか』」(イザヤ66:7-9)。出産は苦しみをともないます。しかし、そこには、新しい者が生まれる誕生の喜びがあります。
  出産とコンピューター、違いは何でしょう。コンピューターでは新しいものが何も産まれません。計算されるものだけが出てきます。それに情緒とか、感情はありません。
  一方、出産には、情緒があり、新しいものの誕生が伴い、期待と希望があります。コンピューターは、私たちの思考方法を短絡させます。一番短い方法を考えます。そしてそれが今日の社会を生み出して行くのです。情緒のない社会、短絡した社会、それは問題をはらみます。コンピューター社会は、言葉を短くします。ゆっくりした社会でありません。そこからファストフードのコンピューター時代に反対して、スローフード運動が出てきます。情緒のない社会は不安です、短絡した社会は不安です
  出産は、どうでしょう、ふつう十カ月かかります、すこしずつ大きくなります。早く大きくさせることはできません。早いのは、早産といっていけないことです。そこで人は待たなくてはなりません。愛は、情緒的なものですが、愛は待ちます。待つことは信仰的なことです。そして新しいものが誕生します。コンピューター社会は、うつ病の時代でもあります。うつとは、情緒の不安定です。また人間不信です。したがってそのような人びとは、信仰を求めます。信仰は愛をともなって情緒的です。そしてそれは希望につながります。そのいやしは、コンピューターと、正反対のことをします。長時間かけて、耳を傾け、相手を受け入れます(カウンセリング)。
  ヨハネ福音書を見てください。そこには、不安とその克服の二つのものが対照して出てきます。
  「しばらくして、あなたがたは、もはや私を見なくなるでしょう、しかし、またふたたびしばらくして、あなたがたは私を見るでしょう」。「あなたがたは、泣き悲しむけれども、この世は喜ぶでしょう」。「あなたがたは憂えに沈むが、しかし、あなたがたの憂いは喜びとなるでしょう」。「あなたがたはこの世では、悩みがあります。しかし、大胆でありなさい、私はすでにこの世に勝利しています」。「見なくなる」ー「見えるようになる」、「憂い」ー「喜び」、「悩む」ー「勝利する」と対照しています。
  この世は大きく言って、すべてこの二つから成り立っています。私たちが仕事をする。そうすれば失敗、成功はつきものです。しかし、「悩み」と「喜び」と、これら二つは、「しばらく」という形でつながっているのです。ここには「しばらくの神学」がなくてはなりません。
  「あなたがたをキリストにある、永遠の栄光に招き入れてくださった、あふれうる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものにしてくださるでしょう」(Ⅰペテロ5:10)。
  これが「しばらくの神学」です。私たちが、どんなに苦しんでも、それは「しばらく」です。「しばらくの神学」には、待望と希望があります。苦しみとは、将来の希望が見えないことにあるのです。
  この世は、一般に喜びのみを求めます。しかし、それはすぐに悲しみに変わります。悲しみも、喜びも同じ質をもっていますから、どうにでも変わり、移ろいゆくのです。これは「諸行無常」の世界と言えるでしょう。
  しかし、今、弟子たちの出会うものは、それとは違っています。「あなたがたは憂えに沈むが、しかし、あなたがたの憂いは喜びとなるでしょう」。弟子たちの憂いは、確かにこの世の憂いと同じ性質をもっていても、その喜びは、信仰からくる喜びですから、そこには質的な変化があります。「涙とともに種まくものは、喜びをもって刈り入れるでしょう。種を携え、涙を流して、出てゆく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるでしょう」(詩編126:5-6)。
  その変えられた喜びは、もとに戻りません。「あなたがたはこの世では、悩みがあります。しかし、大胆でありなさい、私はすでにこの世に勝利しています」との御言葉に基づくからです。そのことを、ここでは生みの苦しみにたとえています。コンピューターは、均一化しますが、この出産の変化、新しいものの出現がありません。信仰は、この新しいものの出現にかけるのです。そのように誰も、信仰者の喜びを取り去ることはできないのです。
  それでも、「それは本当にそうでしょうか」と問うことはできます。信仰者の喜びが、信仰者の意識の中でかならずしも確かでないと言うことがあります。私たちは、すぐまた憂い、悲しみにしずむのではないでしょうか。
  イエスは、たしかにここで、「あなたがたはこの世では、悩みがあります」と言っておられます。
  しかし、私たちは、自分の力や、それがたとい有能であれ、無能であれ、それによって生きるわけでも死ぬわけでもありません。その有能無能を越えて、主はいますのです。
  「われすでに世に勝てり」とおしゃってくださる主がいらっしゃるのです。苦しみや憂いの質は、この世と同じかも知れません。しかし、喜びは違います。私は昨日は負けた、しかし、今日は勝った、というのではありません。それなら明日はまた負けるかも知れません。ここでは主語が変わったのです。「あなたがたは・・・・、しかし、私は・・・・」というように。「私はすでにこの世に勝利しています」です。
  イエスは言われます、「あなたがたは自分の祈りを、私の名の上に基礎づけて祈りなさい」。そうすれば、そのことはなります。成就します。つまりイエスが勝利しているからこそ、私たちは、イエスの名によって祈るのです。勝利者イエスの名において、すべては聞かれるのです。
  それは精神の安定でしょうか。私たちが祈るのは、ただ心のやすらぎ程度のことでしょうか。いいえ、違います。イエス・キリストは事実において勝利しておられるのです。初代教会において、教会は事実においてローマ帝国に勝利したのではないでしょうか。母親の生みの苦しみは、ただ精神の安定にではなく、事実子供が誕生する喜びになったのではないでしょうか。
  弟子たちが、このことを理解しなかったように、私たちも、事実そのことが起こるまで理解しません。それが現れた時、私たちは目を見張って驚き、ひれ伏すのです。「神のなさることは、みなその時にかなって美しいのです」(伝道の書3:11)と。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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