8月17日(日)「一 回 性」説教要旨
 ヘブル9:25-28

   「キリストは事実、ご自身をいけにえとしてささげて、罪を取り除くために、世の終わりに、一度だけ現れたのである」(ヘブル9:26-28)。この聖書の言葉を聞いて、思い出すキルケゴールの言葉があります。

   「人はただ一度しか生きない。死が到来した時、あなたの人生が永遠に向かっているなら、神は永遠にほむべきかな。人は一度しか生きないのです。この地上においてそのように定められています。
   そしてあなたが今、この一度だけのものを生き、時間の中でのその広がりは、刻々消えて行き、時と共に消えて行くにもかかわらず、愛なる神は天にいまし、大きな愛をもってあなたを愛しておられるのです。そうです、神は、あなたを愛しています。それゆえ、神の喜びたもうことは、神が永遠のためにあなたに望んでおられることを、あなたが欲することにほかなりません。そしてそのために苦しもうとすることです」(キルケゴール『瞬間』)。
 

   イエス・キリストは「一度だけ」この世にこられました。十字架もまた「一度だけ」です。それに対応して、私たちの生涯の「一度だけ」があるのです。
   当然のことながら、私たちは一度だけしか、この世に生まれてきません。すると毎瞬毎瞬が、真剣勝負です。しかし、一度だけということはありがたいです。毎回が永遠につながっているからです。私たちは、毎日永遠とつながる業をしているのです。今日のことが、永遠につながるとは、何と幸いなことでしょうか。今の瞬間は一度だけしか来ないのです。つまり、あなたの生きている毎瞬が、永遠なる神さまにつながっているのです。とすれば、その一瞬を大切にして生きることが大事になります。
   歴史学者ランケは、歴史の各時代が、神につながっていると申しました。私たちの生涯の歴史も、その毎日が神さまにつながっているのではないでしょうか。

   しかし、私たちは言うでしょう。「私たちが毎日していることは、滅び行く地上の物質的なことをしてるにすぎない。永遠につながるような、高尚なことはしていない」と。
   そうではないのです。たとい、あなたのしていることが、どんなに機械的なことでも、ただ家族のご飯をつくることでも、ごみを拾うだけのことでも、大丈夫なのです。
   「しかし、食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはない。それらは、神の言葉と祈りとによってきよめられるからである」(Ⅰテモテ4:3-5)と聖書に書いてあります。

   人は、ひとりで生きてはいません。相寄り相助け合って、すべてのことはできています。感謝がなければ、ばらばらな仕事も、感謝をもって見る時、それは永遠なる神につながっています。
  「働く」ととは、もともと「はたを楽にする」ことです。ロッテンブルクの町で、清掃している人を見ました。町では少し愚かと見られている人です。あんな仕事しかできない馬鹿だと見る人もいます。軽蔑の眼で見る人もいます。しかし、あの人がいなければ、町はゴミの山になり、生活はできないでしょう。「感謝」をもって見る時、捨てるべきものがないどころか、ありがたい大切な仕事をしてくれている重要な人となるでしょう。私は、あの人に助けられているのです。
  聖書には、「代理」という考えがあると言いました。Ⅰコリント7:14には、「不信者である夫は、妻によってきよめられており、また不信者の妻も夫によってきよめられているからである」とあります。それは信仰者が、不信者の代理をしていることではないでしょうか。とすれば、家事をする人は、その家族の代理者であり、反対もなりたつのではないでしょうか。カトリックでは、家で家事をしてミサに出られない人、ミサに行く人のバスの運転手、それはミサと同じ価値があるのだと考えています。夫の信仰を妻が代理できるのです。

  すべてのこと「私たちが感謝する」と言いますが、聖餐のことを、昔から「ユーカリストー(感謝)」と申します。それは聖餐の制定のお言葉、「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝してこれをさき」(Ⅰコリント11:24)に由来します。
  ここでは主が、「感謝」と言ってくださるのです。パンを、この地上のいやしい物質を、イエス・キリストが感謝して、これをさく時、それが永遠の主のしるし、「主のからだ」となるのです。ですから、「感謝」は、私たちがする以前に、イエスがしてくださるのです。私たちの地上のいやしい、仕事でも、物でも、「感謝して受ける時には、捨てるべきものはない」。一つの地上の物質をパンをブドウ酒を、イエスは「わたしのからだ、わたしの血」と見てくださるどころか。わたしになってくださるのです。私がゴミを拾っている、それはイエス・キリストのからだを拾っているのです。
  そうすると、その一回性は、一つ一つのことへの感謝につながるのです。今の一瞬は、永遠なる神につながる一瞬だから大切にしよう。大切とは、今の資本主義社会での有用性にはよらないのです。むしろ、「パンをさき、それを感謝して言われた」主の晩餐につながるのです。「人はただ一度しか生きない。死が到来した時、あなたの人生が永遠に向かっているなら、神は永遠にほむべきかな。人は一度しか生きないのです」(キルケゴール)。 

  歳を取ると、このことは、いっそうはっきりしてきます。永遠の御国を思う思いは誰よりも強いと思います。しかし、一回性はどうでしょうか。一日一日、一瞬一瞬が、神さまにつながっているでしょうか。こう考えてくると、無駄な人生というものはありません。「あなたが無駄にしている人生」のみがあるのです。あなたが無駄にした人生を、神さまはイエスさまのゆえに、拾ってくださり、活用してくださるのです。 

  聖書ではキリストの「一度だけ」、それはこの世に来た「受肉」の一度だけ、そして十字架のあがないの一度だけがあります。私たちは、この一度だけのしるしを聖餐式の中で繰り返しています。けれども、それは二千年前のあの一度だけに支えられているのです。そのように、私たちの生活も、このキリストの一度だけで支えられた一度だけにほかなりません。イエスの「一度だけ」は、この私の一回性を代理してくださるから、この一回に意味が出てくるのです。イエスが、「働くーはたを楽にしてくださる」から、「はた」である「私たち」は楽になるのです。
  もし私たちの一回性だけなら、毎瞬毎瞬息がつまるでしょう、リラックスしないでしょう。しかし、イエスの「一度だけ」が、私を支える、だから息が切れないで続けて行けます。「主よ、信じます。信仰のない私をお助けください」と。そしてそれは洗礼の一回性につながります。しかし、その「一度だけ」が、もう一度あることを、聖書は告げます。それはキリストの再臨で、神の国を示しています。「天国のその日くるまで、わが悲しみの歌は消えず、天国の幻を感ずるその日あるかぎり、わが喜びの歌は消えず」(八木重吉)。