8月24日(日)「罪の諸形態」説教要旨
創世記3:1-7 ローマ7:15-25

   日本人は罪の観念が薄い、「もちろん、悪い点はある」、しかし、「それは畳みを叩けば、ほこりが出るようなものではないか」という答えが帰ってきます。その場合、「罪・悪」は、みな対人間関係です。『菊と刀』という本に、日本人の倫理は「恥の倫理」人間中心の倫理だが、キリスト教では「罪の倫理」、神に対する罪があると言っています。
  お母さんが西瓜泥棒にはいって、見張りに立てた子が、「お母さん、誰か見てるよ」、「え、誰が」、「お月様が見てる」と言いました。その子は、知らずして、人間ではない、神の位置にある者(お月さま)を知っていたのです。近ごろテレビなどで見られる、多くの会社や役人の謝罪で、自分が悪かったというより、「世間を騒がせて悪かった」と言っている人が多いのに気づきます。これはまさに恥の倫理にほかなりません。

  聖書でいう罪とは、対人でなく、対神です。見える人間にではなく、隠れています神に対してです。アダムは禁断の木の実を食べて、神に対して罪を犯したのです。放蕩息子は、帰って来て、父親に言います、「私は天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました」と。
  ある集会で、「あなたにとって罪とは、1 傲慢 2 エゴイズム 3 愛のない冷酷さか、それとも 4 神に背いていること」か聞きました。「傲慢」という答えが一番多かったですが。ただ初めの三つは、同じと思えます。傲慢というのは、自己中心でエゴイズムに通じます、それは他者に対して愛のないことでもあります。ですから、大きく二つに分けることができます。「自己中心」の罪と「神に背く」罪です。
  この二つも、一つことの表裏とも言えます。神から離れている人間は、自己中心になる。神から離れて、しげみに身を隠した時、アダムは、「エバが与えたのです」と妻のせいにします。神から離れた人間は、必ず自己中心、エゴイズムになります。「神の認識と自己の認識とは、どこかでつながっています」(カルヴァン)。

  科学技術が入って、その悪影響を受けるのは、日本が世界一番です。神を信じる信仰がある時、科学技術も経済発展も相対化されます。神のいない日本では、それは人間だけという罪の様相を呈します。今日、誰もが、新聞テレビの極悪の報道を見て、日本は本当に悪くなっていると感じるのではないでしょうか。
  その反面、日本人は罪の深さに悩むということは、ほとんどありません。私の最初の回心は、聖なる神の前に、自分はいかに罪深いかでした。第二の回心は、十字架のあがないでした。あなたの罪は、十字架を必要とするほど深いのです。「もゆる心も、たぎつ涙も罪をあがなう力はあらじ」(260番)です。
  「神は全能だから、人間の罪をゆるすのはやさしいだろうと思うのは、間違っている。神は、正しい一点の曇りもないきよいお方だから、罪をゆるすことは、神の最高の正しさにもとるので、きよい神こそ、罪をゆるすことは難しいのだ。それだから、御子を十字架にかけて、その御子を罰することによって、人間の罪をゆるされたのだ」と言った人がいます。ゆるされることの難しいほどの罪を、御子が死ぬことでゆるされるとしたら、人間の罪は底無しに深いのではないでしょうか。

  パウロは、善を欲する私に悪をしていしまう、その自己矛盾に苦しんでいます(ローマ7章)。アウグスチヌスもルターも、この自己矛盾に苦しみました。それは罪の深みです。
  私は、病気のお見舞いに行って、「よくなってください」という時、相手が大嫌いな人だと、自己矛盾を感じます。口でも行為でも善を行いながら、心はそれと正反対のことを考えています。パウロは、「ああわれ悩める人なるかな」と言いました。
  しかし、その時、不思議なことが起こります。「罪の増すところに、恵みもいや増す」のです。神に対して罪を犯している、その時、十字架の恵みにふれるのです。「主の苦しみは、わがためなり、われは死ぬべき罪人なり、かかるわが身にかわりましし、主のみこころは、いとかしこし」(136番)。つまりキリストは、私の罪を代理してくださるのです。ここに罪の深みは頂点に達しました。その時、「罪の増すところに、恵みもいや増す」のです。

  けれども、私たちには、誰でも自己中心ということが、あります。自己中心のない人間はいません。その自己中心を突き詰めた所に、自己崩壊、自己矛盾があります。
  放蕩息子は、遠い国で放蕩に身を持ち崩しました。そこに自己崩壊がきます。しかし、そこに無しかないのなら、絶望です。しかし、その地獄の底に十字架がある時、「御国に入る時、私をおぼえてください」と祈らざるを得ません。
  罪深いあなたの十字架のすぐそばに、イエス・キリストの十字架が立っています。罪とは、そもそも相対的な人間が絶対的になろうとすることで。アダムは、「善悪を知る木の実」を食べました。善悪を自分で知り、園の中央に立ちました。全世界の中心に自分が立ちました。自己絶対化です。罪の根底には、いつも私が正しいがあります。
  ウエスレーは、「地獄はいつも正しさで舗装されている」と言いました。戦争は、いつも正義の戦争です。つまり自分が神になる、大東亜共栄圏を作ると言い、傲慢にも正義と自称する戦争を始めた、その結果は、敗戦という、自己崩壊です。
  善意の中に宿る罪、それは複雑です。ダマスコに至るまでのパウロは、自分こそ正しいと息を弾ませ、キリスト教を撲滅使用としました。彼の心は、自分は正しい、神のみ旨ねを実行しているのだとの確信がありました。それは自己絶対化ではないでしょうか。そして、キリストに出会い、自己崩壊します。善の中に宿る罪、これこそ罪の最高形態です。そこには、自分の罪を気づかない罪があります。罪とは、「自分の罪に気づかないことだ」と言うことができます。

  しかし、キリスト者でも、「畳みをたたけば、ほこりが出る」程度の罪観念ではないでしょうか。その罪は、せいぜい対人関係に留まらないでしょうか。あの子供の、「お月さまが見てる」に劣る罪観念ではないでしょうか。「畳をたたけば」という、自然的説明には「罪の増すところには、恵みもいや増す」こともありません。
  どうして、罪がますところ、恵みが一層増すのでしょうか。それは神の恵みの十字架です。神の奇跡が起こったのです。その時、あの感謝が起こるはずです。それは「他人をゆるす」ことです。十字架は、ほかならぬ神ご自身が、あなたの罪を自分のこととして、負われるのです。
  そのことを私は、他人事とすることができるでしょうか。あなたの罪をゆるすことは、神には最も難しいのです。しかし、神はその難しいことを可能にしました。ご自身で負うことによって。「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らず顔にあるべきかわ」(331番)。罪の反対は、善ではありません。善の中にも罪が宿ることはすでに説明しました。罪の反対は、恵みであります。恵みが出てくるまで、罪を深く掘り下げなさい。「罪の増すところには、恵みもいや増す」からであります。