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8月31日(日)「悔い改め」説教要旨
エゼキエル18:21-24 Ⅱコリント7:8-11
  「悔い改め」という言葉は、聖書の言葉です。もちろん、普通にも「悪かったことを悔い改める」という言葉は使います。しかし、それは道徳的意味です。聖書で「悔い改め」は、それとは全然違った意味です。
 キリストは宣教の初め、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:14)と言いました。聖書の悔い改めは、福音を信じ、神の国の用意をすることです。原語のギリシア語で「メタ・ノイア」は、chage of mindのことで、「回心」という言葉がぴったりです。西に向かっていた者が、全く180度転換して、東に向かうような出来事です。自分を中心にしていた人間が、神を中心にすること。この世のことばかり考えていた人が、永遠なる神の国を考え始めることです。つまり自分を離れて、イエス・キリストの福音を信じ始めることです。全く新しくなることです。それが聖書でいう回心です。
  今日のエゼキエル書には、「悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しい事のために生きる。主なる神は言われる。わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるのではないか」というすばらしい言葉が記されています。
  そのように皆さんは新しくなれます、全く新しくなれます、イエス・キリストを信じて、その福音に生きれば、そうなれます。ギリシアの言葉には、「一度起こった過去は、もう取り返しがきかない」とあります。私たちは、過去にさかのぼって、やり直すことができない、そういうタイム・マシーンはありません。
 しかし、聖書では、過去は変えることができるのです。それは信仰です。キリストは、私たちのすべての過去を、どんな罪深い過去もすべてゆるして、過去を変えて将来に向かって全く新しくすることができるのです。あなたは、今日から、今からでも全く新しくなることができます。それが聖書で言う悔い改め(回心)にほかなりません。
 私は中学五年生今の高校二年の時、洗礼を受け、信仰者になりました。しかし、迷い迷ったあげく、聖霊を受けて回心していないことに気づき、回心記というのを何冊か読みましたが、駄目でした。本によっては、救いを得られないと知りました。
 では何が、救いをもたらし、回心をあたえてくれるのでしょうか。「祈り」です。熱心に祈ることです。一年ほど祈っていたら、与えられました。心が全く新しくなって、見知らぬ人にも兄弟姉妹と呼びかけたくなるほどうれしくなり、毎日が充実してきました。「神は求めてくる者に、聖霊を賜らないことがあるだろうか」(ルカ11・13)という御言葉は真実です。
  そこで私たちはまず、祈りへと回心しなくてはなりません。エゼキエルが言うように、神は変えたもう神、私を変えてくださる神です。もしそうなら、回心とは自分の仕事でありません。神の仕事です。神があなたを変えてくださるのに、あなたは変わらなくてよいのですか。どう変わるのですか。自分が変わるのでなく、変えてくださる神に帰るのです。それが回心です。
 したがって、私たちにできることは、祈りです。祈りは人を変えます。まず祈る人を変えます。次に祈っている対象の人を変えます。さらに状況を変えます。この三つの変化が起こるのです。 ガラテヤ書に「いまではむしろ神を知り、否、神に知られたるに」(ガラテヤ4:9)とあります。あなた神を知ったのでなく、神に知られた、主体は神、あなたは客体。主客が転倒すること、それが回心ではないでしょうか。
 一例を上げます。心配、思い煩い、それは傲慢だと、なぜなら、思い煩いは神ご自身がすること、しかし、それを自分がすることと勘違いしていないでしょうか。それが180度転倒する、私中心から神中心に、それが何事も思い煩うなのいみではないでしょうか。
 あの時、イエスは言いました。「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」(マタイ6:32)と。またⅠペテロ5:7に「神があなたがたのことを思い煩ってくださるのだから、自分の思い煩いを一切神にゆだねなさい」とあります。ここにも180度の転換があります。思い煩いは神の仕事であって、あなたの仕事ではない。このように回心とは、思い煩いや心配にもあてはまります。悔い改めとは思い煩わないことでもあります。
  私は牧師が、神の言葉をあずかっていることの深い意味を最近、信徒の言葉で知りました。仕事で窮した、ある信徒が、御言葉で救われた。それは何でしょうか。私たちの生の根底にあるもの、その中心にあるものに気づいたのです。それが悔い改め、回心ではないでしょうか。それは道徳の講義や聖書の注釈ではどうにもならない事態なのです。今溺れようおする者に、善悪の講義は、また聖書の注解は何の役にも立ちません。
 そこでは、嵐の湖に立つイエス・キリストの「われなり、恐るな」の一言のみが救いです。この御声に従うのが、洗礼です。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」からです。
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