9月7日(日)「契 約 の 信 仰」説教要旨
創世記9:12-17 ヘブル9:11-15

   契約(約束)は、商売をする人が「契約」し、家の賃貸で「契約」したり世俗的意味もありますが、しかし、これは信仰・神学の言葉であります。聖書は、契約の信仰でできています。「新約聖書」、「旧約聖書」というのは、「新しい契約」、「古い契約」の意味です。
  ニーチエは、「人間とは約束できる動物だ」と申しました。確かに動物に言葉があるし、愛情もありますが、「約束する」ことと「祈る」こと、この二つのことはできません。 

   日本人は、比較的契約観念の薄い国民です。島国で同族的つきあいでは、「契約」ということより、「義理・人情」が発達しやすいのです。
  近代社会が始まる時、契約は、広がりました。特にピューリタンがそうです。それは「結婚」と「労働」に現れています。古い封建の時代、「結婚」は親同士が決めたもの、政略結婚もありました。しかし、近代社会では、結婚は神のまえに誓う契約です。労働も、前近代社会では、丁稚小僧は、全く休みもなく、働かされます。契約関係が明確でありません。それは今日の日本でも、前近代的要素は残っていて、「サービス残業」という言葉もあります。それは個が確立している社会か、個が確立せず、集団もしくは、トップの意志が優先する社会かの違いです。
  政治の世界では、「憲法」はまさに契約です。これはもと王様が、人民に約束し人民の権利を守ることからできたのです。よく保守的政治家が、「国民の義務も記さなくてはならない」というのは、憲法が、なぜできたかという「政治のいろは」も知らない人の言うことです。

    聖書の「契約」は、まず創造が神の契約です。
  今日の聖書に「わたしは、わたしとあなたがた、およびすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思い起こすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう」(創世記9:12-16)とあります。恵みの契約です。
  新約聖書になると、もっと恵み、福音の要素が強くなります。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪科をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない」(ヘブル9:11-15)。
  その契約の証印は、キリストの十字架の血であります。しかし、注意してください、聖書の契約は、すべて恵みの契約、片務契約で、双務契約ではありません。私たちは罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっているのに、神さまの側で、自分から御子を十字架にかけることによって、罪深い者が何もしなくても、できなくても、キリストが肩代わりして、罪をゆるす。この片務契約ということを忘れてはいけません。

  なぜなら、私たちはよく、「信仰をもって何十年たちますが、行いの方は一方進まないで」と弁解的挨拶をします。その時、私たちの方で、何かしなくてはならないという、双務契約を考えているのです。
  極端な場合を考えてみましょう。年とって、主の祈りも忘れてボケる、認知症的になるかも知れません。私たちはここで「イエス・キリストの信仰」の二通りの意味を考えて見ましょう。
  「私たちがイエス・キリストを信じる信仰」、この場合「の」という所有格は、目的的所有格です。しかし、もう一つの考え方があります。この方が大切です。この「の」を主格的所有格とし、「イエス・キリストが、私を信じてくださる信仰」と考えることができます。新約聖書の信仰は、徹底的に片務契約であることを忘れないでください。私たちの信仰とは、このイエス・キリストが一方的に、私を信じてっくださるその信仰を、信じることなのです。
  それならば、どこに私たちの誇りがあるでしょうか。全くありません。私たちの力、私たちの信心、私たちの能力によって、神の恵みと手を結ぶのが、私たちの信仰ではありません。全く何もない、こちら側には、お返しするべきものがない。全く取るに足りない罪人、無に等しい者を、神はイエス・キリストの十字架のゆえに、信じてくださった。この片務契約によって、私の信仰ということが言えるのです。

   それでは、そこから何が出てくるのですか。二つのことが出てきます。
  一つは、「それならば、何をしてもかまわない、好き勝手ができる」、そうでしょうか。あなたが、全く無力で、大金持が、あなたの借金負債を全部払ってくださった。「それならうんと借金をしてやれ」となりますか。この片務契約には、証書があるのです。それはイエス・キリストが署名捺印しているのです。ご自身のいのちをもって、十字架の血で書かれたイエス・キリストご自身の署名があるのです。「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血であると言った。こうしてほとんどすべてのものが、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはありません」(ヘブル9:20)。
  するともう一つのことが出てきます。何をしても好き勝手でなく、心からなる「感謝」です。「十字架の血にきよめぬれば、来よとの御声をわれは聞けり、主よ、われは、いまぞ行く、十字架の血にてきよめたまえ」(515番)であります。私はこの十字架の恵みにいかに感謝しても感謝しきれない。そこからは、感謝の行為がでてくるのです。十字架への感謝から、人への愛を忘れてはなりません。欠点のあることは、人間的なことです。しかし、その欠点の中で、その欠点をゆるす神への感謝がなくてはなりません。