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9月14日(日)「神を見ること」説教要旨
出エジプト3:16-19 Ⅰコリント13:9-13
 若い頃は「神について考えていました」。マルチン・ブーバーは、「それについて語る神」は本当の神ではない、「それに向かって語る神」こそ本当の神であると言いました。説明する神でなく、「神さま、助けてください」と祈る、その神が本当の神だ。
 ある無神論者が、嵐になり船が沈みそうになった時、祈りだしたそうです。皆は言いました。「彼の無神論は、陸の上だけの無神論だ」と。無神論にせよ、有神論にせよ、いずれも神について考えていることはできません。「神についての認識と自己認識とは、どこかでつながっているからです」(カルヴァン)。
 「神を考える」の次は、「神を知る」ことになりました。この場合、神は知識の対象です。「わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(Ⅰコリント13:12)。
 そこで初めて「神を知る」のでなく、「神に知られる」のだと思いました。私が主で、神を対象的に知るのでなく、神が主で、私はその神に知られていると思いました。そこでは神と人とが、主客逆転しました。「神の客体として自分を知る」、そういう神認識です。
 しかし、第四番目があります。それは、「神を感ずる」ことです。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(Ⅰコリント1:21)。つまり、感性・直観で知ることは、「神を信じる」ことにつながりました。
 さて第五段階にはいります。それが「神を見る」ことです。しかし、「神を見た者は、まだ一人もいない」(Ⅰヨハネ4:12)とあります。肉の感覚で神を見るこはできません。しかし、「心の目で見る」ことはできるのではないでしょうか。
 聖書には、「神を見る」ことの肯定的な言葉もあります。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:4-5)。 「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう」(Ⅰコリント13:12)。 「心のきよい者は、神を見る」(マタイ5:8)。
 西瓜泥棒の時、子供は「お月様が見ているよ」と言いました。つまり「神が、私たちを見ている」のです。信仰あるなしにかかわらず、悪いやつが捕まると、皆言います。「やはり神さまは見ていたのだ」と。
ドイツの賛美歌にあります。「すべてのものの基にして、いのちなる大気よ、底なく、果てしなき海よ、すべての奇跡の奇跡、私はあなたの中に身を沈める。私はあなたの中に、あなたは私の中にただあなたのみを見、また見いだすまでに私をまったく見えなくしよう」
 私たちはよく「自分を見ないで、ただ神さまだけを見なさい」と言います。自分が無になる時、見えてくるものがあります。「神を見る」ことを、「神に出会う」と言いかえたら、少し分かりやすいではないでしょうか。
 神に出会う時は、イザヤのように、自分が小さくされて、自分の罪深さが分かる時です。年をとると、いっそう神さまに近くなって、信仰深くなるのかと思っていましたら、必ずしもそうではありません。かえって「疑ったり、不安だったり」することが、結構あります。それはからだと共に、精神も弱ってくるからです。ただ直観だけは、とぎすまされてきます。信仰が深められることは当然あります。しかし、それもしかく単純ではありません。生涯完成ということはないようです。
 しかし、ブルムハルトが、「あと十分であなたは神さまにお会いできるのだ」という言葉は、すばらしい言葉として胸を打ちます。 キリストが私に語っていること、「われなり、恐るな」との権威ある言葉、十字架の上のゆるしの祈り、これは何か違う、ここには他の宗教にない何かがある。このお方は最後に私のそばにいてくださると信じます。
 「主よ、あなたは万物と個物を同時に観るばかりか、動く万物と一緒に動き、立ち止まる万物と一緒に立ち止まるのです。・・・主よ、あなたは、これら万物に対して、そして個々のものに対して、同時に全体として付き添って存在しているのです」(クザーヌス)。すべてのものと共に、神と共にある、あなたも、わたしも、鳥も、獣も、草も木も、共に、すべてが、観想と交わりの対象です。このように神の中にはいると、私たちはすべてのものと対話ができます。
 「神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるであろう」(Ⅰヨハネ4:12)。
 この言葉も、以上のことを裏付けているように思います。すべては愛において統一される。神の愛に抱かれている。愛の神に抱かれている。別な言葉で言えば、「神と共なる自然に入って行く」。そこではイザヤが言うように、「狼は小羊と共にやどり、ひょうは小山羊と共に伏し、子牛、若獅子、こえたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、乳飲み子は毒蛇のほらに戯れる」(イザヤ11:6-8)。
 また「さばくに川が流れ、荒野にサフランの花が咲く」。私の人間の自然が、からだ・肉体・心も共に神のものとなる。その究極は、「インマヌエル、神われらと共に」。黙示録が最後に描くように、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも痛みもない」。こうして人はみな共に神を観る。顔と顔とをあわせて、あいまみえる。この終末を、今ここで瞬間的に、祈りのうちに、かいま見ることはないでしょうか。
 確かに「わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である」。この言葉にすべてがこめられているように思います。
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