9月21日(日)「開かれた世界」説教要旨
イザヤ41:17-20 ピリピ3:4-16

  モルトマンの『希望の神学』という本が、一九六四年出版されました。「希望の神学」とは、歴史を神の約束とその成就と見る考え方です。それを図でしめせば、イエス・キリストを中心とした放物線だと思ってください。歴史は神の国に向かって開かれているのです。つまり、私たちにはプロセス、途中、筋道があるのです。その重要なキーポイントは、Open、オープンです。しかし、これには二つの意味があります。
  一つは、将来に向かって開かれている「開放性」、もう一つは、まだ決定されていない「未決性」です。バルトによれば、キリストにおいて永遠の昔にすべてが決定されている。「インマヌエル、神われらと共に」は、はっきりしている。しかし、モルトマンによれば、すべては来るべき神の国に向かって開かれている。未決性をもつのです。したがって今、私たちが歩いている道も、神の国へ向かって行く途上で、それは開かれている、未決性です。

そのことをパウロは次ぎのように言い表しています。
「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」(ピリピ3:12)

反対に「閉じられた生」とはどういうものでしょう。パウロの回心前の状態です、
「もとより肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もしだれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のないものである。しかし、わたしにとって益であったこれらのことを、キリストのゆえに損と思うようになった」(ピリピ3:4-7)。

ここにある古いパウロの閉じられた姿は、六つに分かれます。
1.肉の頼み、自分の偉さ、能力の誇り
2.家柄、生まれ素性
3.民族性
4.人種
5.律法の義 自己義認
6.倫理的優越
しかし、キリスト・イエスを知った時、これらすべてのものを損と思いました。人間の考えは、「安息日に人をいやすのはよいか」と言います。ここに原理主義の特徴があります。しかし、イエスは
「人は安息日のためにもうけられず、安息日が人のためにあるのである」(マルコ2:27)
と言われました。「神が人となったからには、人間が万物の尺度である」(バルト)、ここに原理主義を克服する、キリスト教ヒューマニズムが生きています。

  宗教は下手をすると、次の四つの誤りを犯します。
1.原理主義・律法主義・ファンダメンタリズム 
2.祭儀主義、儀式主義 
3.御利益主義
4.オカルト宗教(洗脳、マインドコントロール)。
その四つに共通していることは、人間がいないことです。「人間がいない神」です。「神がいない人間」なら無神論、唯物論ですが、「人間がいない神」、それが原理主義です。神の自由を人間の律法で閉じ込め、不自由にしているのです。

  人間にも、開かれた自由な人間と閉じられた不自由な人間とがあります。しかし、開かれたということは、未決性があります。私たちはとかく決めたがります、「うちの人は、そそっかしい、彼はこういう人間だ、死なきゃなおらない」と言います。現代では、血液型とか、星占いなどに頼り、それは決まっている閉じられた人間像です。「後世おそるべし」とは、後から生まれて来る者は、どんな可能性をもっているか分からない、恐るべきものがあるという意味です。自由な開かれた人ほど、よく人を育てます。閉じられた人は他者をも駄目にしてしまいます。

それではその反対の自由な開かれた世界を、旧約聖書に見てみましょう。
「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、
主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは、彼らを捨てることがない。
わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、かわいた地を水の源とする。
わたしは荒野に香柏、アカシア、ミルトスおよびオリーブの木を植え、さばくに、いとすぎ、すずかけ、
からまつをともに置く。人びとはこれを見て、主のみ手がこれをなし、
イスラエルの聖者がこれを創造されたこ とを知り、かつ、よく考えて共にに悟る」
(イザヤ41:17-20)

  これが本当の宗教です。 開かれた信仰をもった開かれた人は、決まっていません。まだ変わる余地があります。ですから自由です。開放性は未決性です。未決なものは、不安です。しかし、変わり得る余地があります。「兄弟たちよ、わたしはすでに捕らえたとは思っていない」。「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り」、前進し進歩する。そのことをパウロは、死人の復活にたとえています。
  しかし、この途中は、イエス・キリストに捕らえらています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」。途中もまたキリストの御手のうちにある。だから、「ただわたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」。今日はここまで、明日はまたあそこまで、こうして、私たちは進んで行きます。
「行く末遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて、一足また一足、道をば示したまえ」(288番)