9月28日(日)「落ち込みと信仰(うつ治療法) 」説教要旨
 詩編43:1-5 ローマ15:7

   Ⅰ 精神医学との関係

  「うつ治療法」と言えば、精神医学の分野ではないか、それを無視して信仰の問題にするのは、科学を無視する迷信ではないでしょうか。しかし、ここでは決して精神医学を無視していません。精神医学に二つ流れがあります。私が師事している、精神医学者宮腰孝、赤星進、レイン、サリヴァンなど、薬はほとんど使わず、実存的アプローチをします。『夜と霧』のフランクルも実存的精神医学者です。

  赤星・ポルトマン説では、幼児期の愛情の不足から、人間不信になる、不信の度合が40%位なら正常の精神状態、しかし、60%を越えると神経症になり、80%を越えると精神の病になると言っています。すると信仰の問題に深くかかわっているのです。
  これに対し薬漬けにする、物質主義的精神医学もあります。私は後者を否定します。うつの人に「薬は効くか」と聞くと、90%の人がノーと答えます、そして「話し合い(カウンセリング)」の方がよいと言います。私の経験からは、統合失調症には、多少薬を使う方がよい。しかし、その場合でもいやしの道は、うつと同じ対談によります。これは上に述べた、多くの精神医学者自身が言っていることです。こういう意味で、正しい精神医学と協力してゆきます。反対するのは、唯物的精神医学です。

   Ⅱ どのようにして、信仰と関係するのか

  私たちの信仰は、信仰義認です。ただ信じることによって義とされるのです。それは神中心・キリスト中心で、いわば受け身です。ただ神にゆだね、「聞くこと」のみをします。それは誰にでもできます、シェルダン・コップという精神医学者は「共に巡礼の旅に出る」つまり「お友達になる」ことが、いやしに通じると言っています。それはイエス・キリストの方法です。イエスは自ら積極的になっていやすことをせず、相手の意志を尊重しています。

  1 ある病の人は、「みこここならば、いやすことができます」と言います、それに対して「わが心なり、きよくなれ」とイエスは答えます。ここでイエスは、病者の意志を肯定しているだけです。「お前の言うとおりだよ、よくなりなさい」と(マルコ1:40)

  2 中風の人に、「あなたの罪はゆるされた」と言います。「罪のゆるし」、信仰義認でありませんか。イエスは、ある種の治療を積極的に行ったわけではありません。これは現在形であります。すでに「ゆるされていますよ」と(マルコ2:1)。

  3 長血の女は、イエスの「み衣のすそにさわらば、いやされる」と信じました。イエスは、「あなたの信仰が、あなたを救った」と言っただけです。本人の信仰がいやしているのです(マルコ5:25)。

  4 ベテスダ池の病める人にイエスは、「なおりたいか」と聞き、本人の意志を大切にします。そして「起きて、床をとりあげて、歩きなさい」というだけです(ヨハネ5:2)。 ナザレでは、信仰がないので、何のいやしも行いませんでした(マルコ6:5)。

  「放蕩息子のたとえ」では、すべて父親は、相手に応じています。生きているうち遺産をくれと言う弟息子に、何も言わずに、財産をわたします。忠告めいた言葉は何一つ言いません。放蕩に身を持ち崩して、帰って来た時も、まだ遠くにいるうちに、懴悔の言葉も聞かないで、自分からとんで出てきて、接吻します。いつも「ゆるし」が先にあります。


  これらのイエスのいやしの態度は、ローマ書がまとめています。
「キリストも私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れあって、神の栄光を表すべきである」(ローマ15:7)。
また
「この幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。誰でもこのようなひとりの幼子を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:4-5)
ともあります。

  うつのいやしの要点は、ここにあります。原因をさぐるのでもなく、忠告を与えるのでもなく、何か特殊なことをする訳でもありません。ただ相手の苦しみを聞いて、受け入れることがいやしなのです。このくらいなら、誰でもできるではありませんか。キリストが受け入れるというのは、信仰義認です。いやしは信仰義認と同じ系列にある事柄であることが分かります。

   Ⅲ うつの人自身はどうすべきか

  それはイエスのいやしの方法と同じで、まず「受け入れられている」と思うことです。

  神の自然の流れに沿って、無理をしない、いのちの泉が、自由に流れるように、自然のままにする。我慢をしない、頑張らない、「すべてイエスに受け入れられている」のです。あなたのなすべきことは何もない、もしありとせば、ただみ旨ねのままに、すべてのことをお任せして歩む、それ以外にありません。信仰によって義とされる、そのように、あなたはイエスさまの前に、何ももってゆく必要はありません。あなたのありのままをさらけだしなさい。それがいやしに通じます。

  最後に詩編の言葉を読みましょう。  
「あなたの光とまことを送って、わたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所にわたしをいたらせてください。わたしの大きな喜びである神へ行きます。神よ、わが神よ、わたしは琴をもって、わなたをほめたたえます。わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思い乱れるのか。神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」(詩編43:3-5)。