10月5日(日)「われなり恐るな 」説教要旨
詩編42:1-11 マタイ14:22-36

  人生の根本は何にあるのでしょう。私たちが、こうして教会にくるのも、悩みの時、不安の時、何が最後に私を支えてくれるのか。それを求めてくるのではないでしょうか。 それは、嵐の波間に立って「われなり恐るな」と語りたもう主イエス・キリストではないでしょうか。
  それはまず「われなり(私である)」と言ってくれます。唯物論者の言うように、この人生の根本が、ただ物、物質のみなら、どこに救いがあるのでしょう。また人生の意味が何か分からなくなります。また仏教のように、この人生は、無常で、変わり行くもの、しかし、その「変わり行く」をそのまま、受け入れて悟ればよい、と言うとき、根本にあるのは、仏教でいうダルマ(法)であります。つまり、それは「われなり」と言って助けてくださる、生きた人格でなく、「理」に過ぎません。「理」は、「われなり」とは言いません。無言です。それゆえ私が悟らなければなりません。すると「われなり」の「われ」は、自分自身しかないことになります。

  しかし、イエス・キリストは、はっきりと「われなり、恐るな」と呼びかけます。つまり相対的で変わり行く私ではない、絶対的で永遠な人格が、そう語りかけてくださるのです。しかし、そのことは自明ではありません。私たちの姿は今、弟子たちが、嵐の湖に舟を漕いでいる時に似ています。私たちの人生の舟も、陸から数百メートルも行くと、その嵐に出会います。   
「神よ、鹿の谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
  わが魂はかわいているように神を慕い、生ける神を慕う。
 いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるのだろうか。
  人びとがひねもす私に向かって、『お前の神はどこにいるのか』と
言い続ける間は、 わが涙は昼も夜も私の食物であった」(詩編42:1-3)。


  神はどこにいるか、二つのことがあります。一つは、「イエスがしいて弟子たちを船に乗らせた」(22節)ことです。
  「強いられた恩寵」ということがあります。病気を考えてごらんなさい、失敗を考えてごらん。強いられた恩寵ではないでしょうか。罪の増すところに恵みも増すように、困難のあるところ、恵みも増すのであります。私の病気も「しいられた恩寵」でした。「見よ、私の足がすべると言った時、あなたの恵みは私を支えられました」(詩編94:18) 
  もう一つは、「イエスがひとり祈っておられる」(23節)ことです。イエスは、嵐の中のあなたのために祈っているのかもしれません。「しいて船に乗らせた」とは、イエスの意志が働いているのです。私たちはこれまでも確かに信じてはいました。しかし、試練を経るまで、本当には信じてはいませんでした。
  私たちは、聖霊の出来事が行われるまで、主が、その愛する弟子を突き放す意味が分かりません。反対に、私たちがすべてをすみからすみまで知っている時には、たいしたことは行われないのです。ここで起こっていることは、運命の波ではありません。偶然のいたずらでもありません。恵みの強制、「強いられた恩寵」なのです。それは、私たちが苦悩の中でしぼりだす、その苦難から、恵みの泉がしぼり出てくる奇跡です。

  私たち信仰者のこぐ舟は、数百メートルのところまでで、嵐にあいこぎ悩みます。人間の力の限界に達します。人間の力の尽きるところ、神の力の現れるところです。夜通しこぎ続ける弟子たちに対して、イエス・キリストはどうしたのでしょう。助けてはくれないのでしょうか。

  私たちの祈りは?願いは、求めは、祈れば祈るほど、ますます事態は悪くなってきます。神は長いこと沈黙しておられます。神の日食、神の不在、嵐は外ばかりではありません。私たちの内に嵐が起こり、心の不安が生じます。「イエスは夜明の四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ来られました」。しかし、混乱した心には、真の助けさえ幽霊に見えます。あなたの信仰は、「それは思い過ごしだよ、自分の幻想だよ」という声すら聞こえてきます。しかし、それは幻想ではありません。真に苦悩の中で戦った人なら分かります。

  しかし、信仰者の言葉で救われるのではありません。それは、私たちが幽霊だと思っていたお方から発せられる言葉によるのです。「勇気を出しなさい。われなり恐れるな」です。
  この人生で「われなり」と言ってくださるお方があるでしょうか。賢人、哲人、聖人は、「これが真理だ」とある思想を教えてはくれます。しかし、今溺れる者に水泳法の講義は何の役にも立ちません。飛び込んできて、救ってくれる人です。「われなり、恐れるな」。それのみです。
  よく「天は自ら助ける者を助ける」と言います。しかし、今、自分ではどうにもならないのです。イエスは、自ら助けることのできない者のところに来る助けにほかなりません。人間の可能性のぎりぎりのところで、向こう側からくる、奇跡です。奇跡とは摩訶不思議ではありません。人間の自己放棄のギリギリのところで、生ける神に出会う出来事です。

  けれども信仰は、この「われなり恐れるな」を聞いて安心している、救いの境地ではありません。
  ペテロをご覧なさい、行動に出ました。「主よ、あなたでしたか、ではわたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。しかし、このペテロの行動は、決して信仰の決断ではありません。半信半疑の行動に過ぎません。
  その証拠に彼は、波と風に恐れたのです。私たちの行動も、似たようなものではないでしょうか。信仰の決断と称しながら、案外半信半疑です。しかし、ペテロは「みもとに」、イエス・キリストのもとに、行かせてくださいと願ったのです。水を見たり、波と風を見たりしてはなりません。「みもとに」行き着かせるのは、決してペテロの決断や信仰ではありません。「みもとに行かせてください」と信仰の決断をして、よろめきながら不安の中で歩み始める私たちの手をしっかりと支えてくださるイエス・キリストの御手にほかなりません。
  ペテロは沈みます。この第一の弟子が沈むとしたら、私たちも沈むでしょう。しかし、忘れてはいけません。たといペテロが沈んでも、イエス・キリストは沈むことはありません。決してありません。しっかりとしたイエスの御手です。「あなたがた私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである」。