10月12日(日)「原理主義の危険」説教要旨
箴言21:1-2 マルコ2:23-27

  原理主義は、聖書では「律法主義」といい、神学的には「ファンダメンタリズム」と申します。テロの横行から、「イスラム原理主義」という言葉が、よく使われますし、ブッシュ大統領が出た時、その背後に、「キリスト教原理主義者」がいると言われました。
  共通していることは、ある原理・原則のみたてにとって、人間が無視されることです。イエスが言った、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)は、まさにそのことを的確に表現しています。カール・バルトは、「神が人となったからには、人間が万物の尺度である」と言いました。それはキリストが現れた受肉の事実は、ヒューマンなこと、つまりキリスト教ヒューマニズムだというのです。原理主義には、ヒューマニズムがありません。まさに「人間のない神」です。

  ではどうして原理主義が、はやるのでしょうか。それは原理・原則でゆけば、思考することがいらないで、安直だからです。合言葉というのがあります。それは主に敵をやっつけるために用いられます。あれは「赤だ」、「民主主義ではない」、「個人主義だ」、いくらでもあります。合言葉は、一言で、相手をやっつける便利さがあります。
  しかし、危険です。中身がなく、言葉だけ先走りするからです。その場合、その合言葉が、周りの人に承認され、多くの人が、共通意識をもっていることが前提になっています。共産主義国へ行って、「赤だ」では通用しません。共産主義は悪いものという共通意識がないところでは役に立ちません。すると、合言葉は、原理主義というのは、多数を頼んでいるので、そこでは「赤」とは何か、共産主義はどこが悪く、どこが良いのか、厳密に検討していません。 もっと言えば、自分の思考で、この自分の頭で考えていないで、一般の賛同を考えているのです。  

  そこで「名の信仰」が大切です。イエスは、「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われました。また一匹の迷う羊のたとえを話しました。イエス・キリストを信じるという場合、それはは複数ではなく、単数です。神は、この一人になられたのです。その神は、「これらの最も小さい者の一人をごらんになります」。
  また神は、抽象名詞になられたのではありません。たとえば、正直とか、原理主義者が好む、原理になられたのではありません。一人のイエスという名ののもとに来られたのです。名は、名称ではありません。実質です、個そのものです。全世界をもってしてもかけがえのない、この私個人、ひとりです。集団化してしまう時、名は失われます。それは名称に変わります。
  この間、「日本は単一民族だ」と言った大臣がやめました。アイヌ民族から文句が出たのです。つまり原理主義は、個々のものの差異性・相違性・独自性を無視して、すべてをある原理でくくろうとします。たとえば「世田谷の住民」、「日本人」、「外人」、いくらでもあります。その時、個は失われます。名はありません。人は名無しの権兵衛になります。
  私たちの神に名があります。「願わくは、御名をあがめさせてください」、「ナザレのイエス・キリストの名によって歩め」。今日のコンピューター社会は、名無しの社会であります。一人一人の個は数で表されます。そこでの主張されなければならない真理は、名の神学、名の信仰です。

  原理主義の危険は、「人間の道は、自分の目に正しいと見える。主は心の中をはかられる」(箴言21:2)と、聖書にあるように、自己正義、自己義認、自己絶対化です。自分は正しい、いや自分のみが正しいと考えます。そこには、他者との対話が成立しません。

  さらに言えば、原理主義の危険は、これが一番悪いことですが、真理を変えて偽物をつかませることです。ダイヤモンドの偽ものをもってきて、これが本当のダイヤモンドだというのです。キリスト教とは、イエス・キリストです。そこには、罪すらゆるす恵み、最高の恵み深い恵みがあります。この恵みこそイエス・キリストの真理です。これを原理主義で覆い隠してしまいます。
  パウロは、霊と文字と言いました。「神は、私たちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(Ⅱコリント3:6)。この言葉は、まるで原理主義者のために作られらようです。原理主義には、文字だけあって、聖霊がないのです。

  こう考えてくると、原理主義は、必ずしも外にいる訳ではありません。時として、私たちの中に原理主義がはいることもあるでしょう。たとえば、ある合言葉で人をやっつけることはないでしょうか。この間、ある人の論文に、「それは宗教改革的でない」と言う言葉で、反対の神学者を攻撃している言葉がありました。そこには、宗教改革のどの点かの詳しい説明はありません。合言葉で、人を攻撃する時、よく注意しなくてはなりません。丁寧に説明しなければ、それは一種の原理主義になってしまいます。特に私たちは、人を攻撃する時、やっつける時、腹を立て怒っている時、この「合言葉原理主義」になりがちです。すると相手も合言葉で切り返し、不毛な論議が続きます。「あの人はA型だ」、「あれは不良だ」など。

  また私たちには規則中心主義があります。規則だからという、官僚主義に通じます。しかし、イエスは「規則は人のためにあるので、人が規則のためにあるのではない」と言われるでしょう。人間を大切にすることが大事です。 私たちは、原理主義者にならないためには、時々、もしかして自分の方が間違っているのでないか、と考える必要があります。つまり相手の正しさは何か、ないか、どこにあるかと考えることです。原理主義者は、対話が不可能です。独裁的です。

  根本的に言って、原理主義は、過去思考です。すでに決まっている原則ですから、それは過去にきまったものです。すると新しいものは出てきません。「この人の罪か、親の罪か」と言った時、イエスは、「この人罪でも、親の罪でもない、ただ神の栄光が彼に現れるためだ」(ヨハネ9:1-6)と言って、これから神のなさる業、未来思考、将来、まさに来るべきものに、目を向けさせました。もし原理主義になると、新しいことはなく、すべて既定の事実のみになります。社会の進歩、人間の変化はなくなります。
  祈りとは何でしょうか。新しいことを神が起こしてくださることを信じて祈るのではないでしょうか。原理主義になればこうして祈りも、形式的、既定のことしか祈れなくなり、すでに得たりと信じつつ進む新しい力はなくなるでしょう。その証拠に、原理主義者は、すべて保守主義者です。社会の進歩はとまります。信仰の進歩もとまります。学問の進歩もとまります。