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10月19日(日)「晩餐のたとえ」説教要旨
ルカ14:15-24 イザヤ55:1-2
 「もうすっかり準備ができました。おいでください」。
 このたとえ話は、ここから始まります。ふつう食事は、私たちが用意します。しかし、神の国の食事は、主催者である神が用意してくださいます。そのように私たちの信仰は、「神備えたもう」ということが、常に先にあります。そこでは人間に優先する、神の業「もうすでに」「すっかりできた」、ここから出発するのです。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。ここから出発するのです。
 しかし、そのことは、私たちの決断や行為がいらないのではありません。御馳走が用意されても、自分で手を出して、食べなければならないでしょう。御馳走がとても美味しく栄養に満ちて用意されれば、されるほど、私たちの食欲をそそり、手も出したくなります。つまり、神の用意の大きさ、それと共に、私たちの信仰と決断の大胆さが必要なのです。
 ところが招待を受けた人びとは断り始めます。
 「晩餐の時間になると、自分の僕を遣わして、招待した人びとに言わせました、 するとどの人もどの人もみな、言い訳を言って断り始めました。 最初の人は言いました、『わたしは、畑を買いました。出かけて行って、それをどうしても見なければなりません。なにとぞ、おゆるしください』。
 もう一人の人は言いました、『わたしは、五対の牛を買いましたので、今ちょうどそれを調べにゆくところです。なにとぞ、お許しください』。
 さらにもう一人の人は言いました、『わたしは妻をめとりました。そのために行くことはできません』」。
 三人が三様の理由で断りだしたのです。本来、断る理由はないはずです。実は、最初招待状が出た時、「出席」と書いたはずなのです。ちょうど結婚式の時、招待状に入ってくる返信用はがきに私たちは、よく「出席」と書くではありませんか。出席と出しておきながら、その日になって、行けませんでは、あまりに人を馬鹿にしたことですし、このたとえのように、皆が皆断ったらどうでしょう。結婚式は成立しなくなります。
 ところで信仰生活の中では、こうゆうことがよく起こるのです。わたしたちは、自分が、神さまに造られたことを認め、ある人は、イエス・キリストの救いを承認さえしているはずなのです。その最初の招待は、オーケーしているはずなのです。しかし、いよいよになると、断りだすのが人間の常であります。決断と言うことから、人はみな逃げたいのです。「神からの逃走」という本があります。そうです、現代社会は、皆神から逃走中なのです。
 さてこの人びとの断り方を、一つ一つ見て見ましょう。
 第一の人は、畑を買い、「出かけて行って、どうしても見なければなりません」。
 この人の理由は、「ねばならない」です。何とわたしたちには、この「ねばならない」が多いことでしょう。私たちの人生は、まるでこの「なばならない」で固められているようです。しょちゅう追いかけられています。
 面白いことにドイツ語では、「なばならい」の否定が、「する必要がない」の意味になります。「ねばならない」が好きな人間よ、本当にあなたは、そうしなければらないのでしょうか。ひょっとして、それは「必要がない」のではないかと、時々考えてみることが信仰生活の肝要な部分だとは思いませんか。
 ブルームハルトという人は、「さばくな」ということは、「そもそもさばく必要がない」のだ、「なぜならば、神がすでにしていてくだるから」と言っています。「ねばならない」は、この神がしてくださることの否定にほかなりません。
 第二の人は、「牛を買い、それを今、しらべにゆく最中だ」という、断り方です。これはいわば、現在進行形であります。これが、現実だ、今進行している、ほかにどうしようもない。いって見れば、現実の力とでも言いましょうか。
 わたしたちの中に、いつもこの「現実の力」が、幅を聞かせていませんか。すでに始まっていることが、唯一つ絶対のことなら、その現実がいつの間にか、偶像になりませんか。それならどうして、新しい事が始められるでしょうか。すでにあるものが、絶対の弁明なら、何も新しいことは始まりません。すでに始まっているものを、打ち壊す勇気ある者のみが、新しいことに着手し、無限の可能性を引き出すことができるのであります。
 また信仰の希望の将来をもつことができるのです。神、この根源的なお方に立ち返って、考え、そこから見る時、すべて進行形は言い訳けにすぎなくなります。わたしたちの人生は、こうした言い訳けと弁明の連続ではありませんか。弁明から何が出てくるでしょうか。
 最後の人は、「妻をめとり、結婚したから、行くことは不可能だ」と言うのです。結婚式を、突然する人はいません。前から分かっていたはずです。それなのにどうして、不可能なのでしょう。その人に良い薬は、「人には不可能だが、神にはすべてのことが、可能である」(マルコ10:27)とのキリストの言葉です。神は、不可能の瀬戸際にいつも立っていらっしゃいます。
 さてこれらの三人は、それぞれ、「ねばならない」、「進行中です」、「できません」という、人間がいつも出す弁解のとりこになっていました。わたしたちの生活をよくみてください。やはりこの三つの弁解が、かなり絶対的な力をもって、支配していないと言えるでしょうか。
 神は、このような弁解を越えておられます。
 「そこで僕は帰って、自分の主人に、これらのことを報告しました。 その時、家の主人は怒って僕に言いました、『すぐに町の大通りや小道へ出ていって、 貧しい人びと・からだの不自由な人びと・目の見えない人びと・足の不自由な人びとをここに連れてきなさい』」。
 一体、この貧しい人びとと、あの弁解の人たちとの違いは何でしょう。持っているのです、彼らは、あまりに持ちすぎているのです。ですから、弁解に事欠かないのです。ところが、この人びとは、持っていないのです。「幸いなるかな、貧しき者、神の国はその人びとのものです」。
 ところが、持っている人は、大切なものを、欠いていませんか。いつでも神に開かれた心が欠けています。
 では皆さんは、どちらですか、持っている方ですか、それとも持っていない方ですか。そう開き直って聞かれれば、誰しも、「いや、わたしは持っていません。少なくとも、ほんの少しいか持っていません」と言うでしょう。力も才能もありません。お金は言うにおよばず、方法も知恵もないのです、と。それならちょうどよいです「いらっしゃい、神さまの晩餐に、ただで手ぶらで何も持たずにいらしゃい」。すべては用意されています。
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