10月26日(日)「不安・混乱と希望・平安」説教要旨
マタイ6:25-34 詩編55:22

  21世紀、それは一言で言えば、「不安と混乱」ではないでしょうか。今日の不安は、すべての高度の機械化、科学技術化にあると思います。
  21世紀初めのコンピューターの切り替えの時、12月31日おおみそかの混乱を覚えていますか。携帯電話は、慣れた人には便利でしょうが、それは人びとの頭脳を侵しています。秋葉原の事件も、科学技術化と無関係ではありません。それが「秋葉原」で起こったとは、象徴的です。今日、人びとは、常に朝から晩まで、科学技術と向き合っています。
  携帯電話をもって会社や学校に行きます。会社ではコンピューターと向き合っています。帰ってテレビを見ます。科学技術は、生活を便利にしますが、その代償に、私たちを不安と混乱に陥れます。ほとんどの人は、その便利さのために、その代償に気づかないか、無視するかしています。小さな子供ほど、その影響は大きいのです、石川県野々市町の教育委員会が中学生の携帯電話をやめるようにしたところ、いじめが少なくなったというはっきりした統計があります。

  さて科学技術化と共に、私たちは自然と向き合うことが少なくなっています。今日のエコロジーの問題もそこから来ます。
  しかし、イエス・キリストは、今、私たちの心を自然に向けさせます。
  「空の鳥を見よ」、「野の花を見よ」と。では、空の鳥に、野の花に、何を見るのでしょうか。ゆったりと空を飛ぶ姿でしょうか。そうではありません。
  「まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることのしない」、その劣っていることを見なさいと言うのです。

  「劣等感コンプレックス」というのがあります。ここにあるように「できない」、「何がない」、ないないずくし、それは普通なら劣等感コンプレックスになるはずです。しかし、劣等感はその反面に、「私はできるはずだ」、「もっと能力があるはずだ」といった傲慢があるのです。しかし、イエスは、空の鳥の「できない」、その姿を見なさいと言われます。その劣等の背後に、人間の傲慢ではなく、神の配慮があることを見なさいと言われたのです。「それだのに天の父なる神は、これを養ってくださる」と。

  考えて見てください。「思い煩い」は、傲慢です。劣等感というのは、本当の自分の弱さを知らず、ゼロまで下がり切らず、どこかに自分は、本当はもっと力があるのだと言ったおごりがあって、無にまで縮んでゆかない一種の傲慢なのです。そこには他の人間との比較のみあって、神がいないのです。

  真に無力に徹した時、
「あなたがたの思い煩いを、神にゆだねなさい。神があなたがたのために思い煩ってくださるのだから。だから神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」(1ペテロ5:6-7)
という御言葉が分かるのではないでしょうか。このことに信頼し、無力に徹すると同じくらい、信頼に徹するのではないでしょうか。「だれが思い煩って、寿命をのばせるか」、思い煩いは無力です。思い煩ったなら、命はかえって縮んでしまうでしょう。あなたはどうして、その無力な「思い煩い」にしがみついているのですか。 

  「野の花を見よ」、今度は野の花の何を見るのでしょう。働きもせず、紡ぎもしない。ここでも「ない」ことを見るのです。
  この機械文明の社会では、「ある」ことが、優れており、「ない」ことは、劣っていることです。しかし、宗教の世界は、この「ない」こと、「無」に価値を認めます。祈り、手を合わせる、何もしない、あなたに任せる。断食、何もしない、しかし、いやしが行われる。宗教、信仰の世界では、無、「ない」から、実に大きなことが生じるのです。
  神は「今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる」ほど無力な野の花を、「ソロモン王でさえ、かなわないほどの装いをし、着飾るのです」。神はこれを装う、それは神の自然の摂理です。科学技術では、自然法則と言います。それは人間がそれを利用して、便利になるためです。自然は、自然科学、技術では、人間の僕です。しかし、イエス・キリストは、それを対話の相手となさいました。いや、人間の教師とさえしました。
  科学技術でこの野の花を、そのすばらしさを作り出すことはできません。陶工柿右衛門は、夕日に映えた柿の色をだそうとしました。ある画家は、「どんな偉い画家も、自然そのままの色をだせない」と言いました。あなたのからだの不思議、自然の良能、摂理、配剤を忘れてはなりません。

  神は私たち以上によく必要を知っている。「あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」。ある時、あなたがたに病気が必要であることも、私たち以上にご存じです。私たちには、本当は必要であるものが分かりません。本当はいらないものを、必要だ必要だと言って求めているのかも知れません。

  「まず神の国と神の義を求めなさい」。
  「神の国」、「神の義」、それはいりません、そうではありません。私が悩んでいるのは、そういう高尚なものではなく、もっと身近かなものです。お金の問題です。子供の教育の問題、夫婦の関係、恋愛の問題ですと言うかも知れません。しかし、本屋に行って、本誌はいらないから、その付録だけくれと言う訳には参りません。しかし、本誌には、必ず付録がついてきます。
  「まず神の国と神の義とを求めなさい」。すべてをお造りになった神、その方を求めなさい。そうすれば、あなたの今、思い煩っていることは、付録としてついてきますよ。

  「明日のことを思い煩うな」、明日は、全く違った形で来ます。それは私たちの計算にはいっていない、しかし、すばらしいことです。神はいつも私たちとは違った方法をもっておられます。驚くべき方法で私たちを救ってくださいます。
  「思い煩ってはならない。ただ一つのことでも、その一つのことがすでにあなたにとって重荷なのだ。業をなすは私のつとめ、神の果たす分なのだ。あなたの務め、それは私のうちに憩うこと」。私たちが、その行動半径を指定したような摂理は、神の摂理ではありません。神は、私たちの望むようには動かないかも知れません。しかし、はるかに大きな恵みの御手をもっておられます。

  

  「私の足がすべると思った時、
  主よ、あなたのいつくしみは、私を支えられました」(詩編94:18)。


  「あなたの荷を主にゆだねよ。
   主はあなたを支えられる。
   主は正しい人の動かされることを決してゆるされない」(詩編55:22)。