11月2日(日)「墓を越えた信仰」説教要旨
ルカ24:1-9 ヨブ33:24-25

  Ⅰ  私たちは召天者を記念する礼拝をもちます。でも「記念する」とは、ただ懐かしく思い出すことでしょうか。そのことは大切なことですが、それだけなら、真の救いはありません。ただ気休めがあるだけです。私たちの「記念」は、もっと存在の根源である神にまでさかのぼらねばなりません。
  「記念する」とは、私たちを創造された神から考えることです。そうでないと、そこには「思い出」だけあって、「希望」がありません。

  希望は向こう側からやってきます。私たちの「記念」は、後ろ向ではなく、前向きです。希望に向かって「記念する」のです。
  墓は終わりと思われがちです。「人生の墓場」などと言います。しかし、皆さん、信仰において、「墓」は、始まりでもあるのです。モルトマンは『終わりの中に始まりが』という本を書きました。死は終わりだと思われています。誰も死を恐れています。
  しかし、聖書は、死が始まりだと告げます。普通、「死んだら、からだは朽ち果てるが、霊は天にむかて行く」と信じられていないでしょうか。しかし、それだけなら、どこにキリストがいるでしょう。どこにキリストの復活が必要なのでしょう。


  Ⅱ 今日の聖書の箇所、ルカ福音書24:1-9の出来事、それは十字架のイエスが、死の墓をからにしてよみがえった事実です。十字架が大切です。
  「まだガリラヤにいらしたころ言われたことを思い起こしてごらんなさい。 人の子は、罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、とおっしゃったではありませんか」と、天の使は言いました。

  十字架とは何でしょうか。それは「罪のない、神の子が罪人として、私たち罪人のために、十字架の刑罰を受けて死んでくださったこと」なのであります。十字架なしに復活はありません。ですから、十字架ぬきで分かっている復活は、ただ「霊魂不滅」、死んで肉体は滅びても、魂は空中に浮遊して生き続けるという、ありきたりの教えにすぎません。そこには死を克服した勝利の喜びはありません。

  私は死がこわくて信仰に入りました。しかし、牧師をしている関係上、人のいまわのきわに触れることが多かった。そして初めて、分かった、神は一度無を通して勝利されるのだということが。
  十字架は金曜日です。復活は日曜日です。中の土曜日は何の日なのでしょうか。「黄泉(よみ)にまで下った」日です。全く無になられた日です。私は、そのことが分かったのです。私たちは無を通して、新しい命によみがえるのです。

  次のような詩があります。

  
「人は死ぬ、 その生は朽ち果てる、 ではその生は無意味だったのか。誰がその意味をきめるのか。神のみ!無から有を造り 有を無に帰せしめ、そしてまた、無から有を造りだす神なしには、 この人生は無にすぎない。
  しかし、神は愛である。愛なる神がいますゆえ、 すべて意味がでてくる、 死んだ者は、むなしく朽ち果てるのではないアウシュヴィッツ、ヒロシマの死者は、むなしく葬り去られるのではない。生ける者と死せる者の主となられた復活の主はそのことを教える」



  Ⅲ 「だから愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされることなく、いつも全力をあげて、主の業にはげみなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは死っているからです」(Ⅰコリント15:58)
と、パウロはキリストの復活について記したのち、こう書き送っています。
  あなたの生涯が「むだではない」、あの人の生は「むだでない」。それが、イエス・キリストの復活の意味にほかなりません。不慮に死んだ人の過去も忘れ去られるのではありません。私たちの弱さも失敗も、むだに終わるのではありません。キリストは死人の中からよみがえられたのですから、もはや過去は、後悔の対象ではなく、今や希望の礎石にかえられたのです。

  「すると石が墓から転がしてあるのを見つけました。 中に入って見ると、主イエスのからだが見当たりません」。
  この言葉は、イエス・キリストの復活は、「からだのよみがえり」・「肉体の復活」であって、単なる永遠の生命でないことを語っています。無から有を造られた神は、創造者であります。そして私たちはまた無に帰しますが、もし創造者なる神がいますなら、この無に帰したからだは、再建されるのではないでしょうか。

  目の見えない青年が、「天国には、からだがあるのか」と真剣に聞いていました。筋ジストロフィーのからだ、それは再建されないのでしょうか。いやそればかりではありません。人間とは、卵細胞から、胎児にそして子供になります。
  モルトマンという神学者は、多くの人が、人間というと成人した人間のみを扱っているが、そうではない、これらの過程全体が、人間なのである。したがって、イエス・キリストの復活というとき、私たちの全体の体が復活するのであります。胎児のみで流産した子、あるいはよく言う「水子」もまた、よみがえるのであります。
  実にキリストの復活は、肉体の復活です。それはまた自然の再建でもあります。破滅に瀕している、この自然の再建をも含むのです。その時、どうでしょう、私たちの人生の一つ、一つのひとこまひとこまが、意味をもってくるのではないでしょうか。

  「失敗の人生」というのはありません。ただ自分が、「失敗だと思っている人生」があるにすぎません。イエス・キリストは、この私たちの人生の歴史を、全部生きてくださり、失敗の人生の最たるものを、十字架において、受け、死によみがえったのです。とすれば、イエス・キリストの信仰において、復活の信仰において、失敗の人生はありません。

  婦人たちが、墓の中に死体がないので、「そのため途方にくれていると、ごらんなさい、輝く衣をまとったふたりの人が、彼女たちのところに立ちました。 おそろしくなって、顔を地面に伏せると、彼女たちに言いました、『どうして生きているお方を、死人の中に探すのですか。 あのお方はここにはいらっしゃいません。よみがえられたのです』」。
  私たちの失敗は、ただ生きているお方を忘れて、墓の中を探しているようなものではないでしょうか。この生きているお方は、実に人間のすべての失敗も悲惨も、苦悩も一切十字架の上に背負って、「あなたがたは世にあっては悩みがある、しかし、雄々しかれ、私はすでに世に勝っている」と言われます。
  そうです、勝っているのです。死の墓をからにして、地獄も失敗もすべてからにして、神のみもとに凱旋するのであります。