11月16日(日)「いためる葦を折ることなく 」説教要旨
マタイ12:9ー21  イザヤ42:1-4

   「いためる葦を折ることなく、ほの暗き灯火を消すことなく」は、イザヤ書の「主の僕の歌」に出てくるものです。それは、イエス・キリストにおいて実現しました。  
「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。   
  わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道を示す、   
  彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、   
  いためる葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。   
  彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」
  (イザヤ42:1-4)。

  これを引用したマタイ福音書12:9-21には、安息日の問題が出てきます。

  人は週に一日、安息日には仕事を休まなければなりません。人間は、休みを必要としています。肉体的にも精神的にもそうです。
  今日の世界は、何となくせわしくなって、あくせくしています。資本主義の競争社会は、いよいよ人を駆り立て、休みなくしていないでしょうか。
  しかし、ここでは資本主義ではなく、「人に休みを命じている」この安息日の律法が、人をがんじがらめにして、律法の奴隷にしてしまうことが問題になっています。
  宗教とは、本来人を救い、解放するはずのものなのに、かえって人を縛る律法宗教になることさえあります。当時、無数の安息日の規定があって、たとえばどのくらい旅行してもよいか、どの程度の病気をいやしてよいか、いろいろありました。
  今「イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。そるとその時、片手のなえた人がいた。人びとはイエスを訴えようと思って、『安息日に人をいやしても差し支えないか』と尋ねた」。
  律法学者のおきて解釈は、非常に積極的な「安息」の戒めを、ただ「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」というように、禁止と否定のためのおきてにしてしまいました。イエスは、このような禁止のおきてに苦しめられている民衆を、この律法解釈のがんじがらめから救い出しました。 

  では安息日のおきてには、どういう積極的意味があるでしょうか。
  第一には今言った、「奴隷状態からの解放」です。それには精神的意味(「祝福する」)も含まっています。その日を聖とし祝福するとは、次の意味をもっています。週日ただ仕事に追われ、仕事の関係でのみ人とつきあっています。その時、人間はただ道具か手段になっていないでしょうか。 つくずく人間を見、人として愛し交わるということがありません。その証拠に、教会では、あなたはどこの学校を出ましたかとか、いくら給料をとっているか、性格は何かも問題でありません。人間を、その人として神に愛せられる者としてだけ見るからです。
  七日に一度、一切の仕事から解放されて、互いに祝福しあい、そして神を聖としあがめる、このことは大切なことです。なぜなら、「休み」ということが、この精神的意味を離れて、それだけ独立して守られると、この精神的面が忘れられ、今日見られるように、レジャー産業に追いかけられる休息の取り方になります。そのため神は、「安息日を聖とし、祝福した」とあるのです。そこには「奴隷的なものからの解放」と共に、「生きた人格の回復と交わりの更新」という積極的面がなくてはなりません。

  安息日は、やがて来る神の国、永遠の安息の先取りでもあります。これらの積極的意味を忘れて、律法主義者は、消極的、否定的意味にのみこれを用いました。イエスは言われました、「安息日は人のためあるので、人が安息日のためにあるのではありません」。わたしたちも、しばしば律法をたてにとって人間を忘れることがあります。

   私は仙台に行った時、隣人のための教会を考えました。その時したことが二つあります。筋ジストロフィーの車椅子の人への福音です。もう一つは心の病んでいる人びとへのカウンセリングの配慮です。私として、「いためる葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」の実践のつもりでした。
  しかし、それらは、実は私自身のためにもなりました。ある母さんは、三人の子を筋ジストロフィーになり、絶望的になって塩竈の町をさまよいました。教会に打ち当たり、よき牧師を得、救われました。その先生は、「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、またいためる葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道ををしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」人でした。
  また私はうつの人を牧師館に呼んで、カウンセリングをしました。初めは何のことか、分からず五里霧中でした。しかし、祈りの時、聞かれました。それも私としては、「いためる葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」という気持ちでした。長いことしているうちに、はっきりしていることは、「いためる葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」というところに、いと小さき者の主もいますのです。「これらの最も小さき者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われた主ご自身が。