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11月23日(日)「信仰とは何か」説教要旨
創世記12:1-2 ヘブル11:1-3
 信仰とは何か、というと、
 
1. 私たちは、十字架によって罪から救われたこと、それを信じることと考えます。ローマ書にある、信仰義認、十字架の信仰です。
 
2. しかし、あるいはまた、イザヤが言うように、「穏やかにしてより頼むなら力を得る」と、どんな絶望的な時にも信頼していることと考えます。これは「信頼としての信仰」でしょう。
 
3. しかし、今ヘブル書では、「信仰とは望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と、前方に向かって希望をもつこととしています。「希望の信仰」と言ってよいでしょう。その例としてアブラハムが、行くとこと知らずして出て行ったことが記されています。言ってみれば、希望として、あるいは冒険、チャレンジとしての信仰であります。
 
1.十字架を信じるというと、私の魂と神との上と下のつながりです。2.また絶望的な時の信頼も、魂と神との上と下のつながりです。3.しかし、このヘブル11:1に描かれている信仰は、上と下でなく、前の方に向かっています。上下の縦の線に対して、前後の横の線です。
 しかし、ヘブル書でも、九章には、「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身を捧げられた」(28節)とあり、1.の十字架の信仰もでています。またパウロがローマ書で十字架の信仰を述べたところで、その例としてアブラハムを引いて、「彼はこの神、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望む得ないのに、なおも望みつつ信じた」とあります。それは3.の「希望の信仰」です。すると上下の十字架にの信仰と、無から有を呼び出す神を信じる希望の信仰とは一つです。
 信仰義認とは、全く罪人で「無」に過ぎない者を、義と認め、「有」であるとしてくださること、それは無→有です。穏やかにしてより頼む、「信頼」も、絶望という「無」において、神の「有」を信じているのです。ヘブル書も、「まだ見ていないこと確かとする」、「無」であるものを「有」だとする点、同じではないでしょうか。上と下、前といっても、信仰の本質は、「無」→「有」であり、「無」に過ぎない人間を、「有」だと言ってくださる、神を信じるのではないでしょうか。
 次に、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」と、創造の初め、神は、無から世界をお造りになった、それは「無」→「有」ではないでしょうか。すると、神の天地万物を創造される信仰も、十字架の信仰も、平穏な信頼の信仰も、そして前方に向かって信じる希望の信仰も、その姿は、同じではないでしょうか。
 「無」とは、創造の初めにあった虚無です。アウグスチヌスは、「神は世界を無から造った。しかし、愛によって造った。それゆえ、私たちは上に向かって上昇すれば、神の愛に到達する。しかし、堕落して下に向かって行けば、虚無になる」と言いました。そしてこの中間にあるのが信仰にほかなりません。
 信仰とは中間状態です。まだ見ていません。まだいただいていません。しかし、信じるのです。「祈って願うことは、すでに得たりと信ぜよ」。「主よ、信じます、信仰なきわれを救いたまえ」です。ここでも信仰は、すでに得ている状態と、いまだない状態の中間にあるのです。
 パウロもヘブル書と同じように、前方を見ました。「わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこれを捕らえようとして追い求めている」、中間の信仰ですが、しかし、そのように中間にあって追い求めるのは、キリストによって捕らえられているからだと。無の中に、有を信じていました。
 したがって信仰は中間状態ですから、疑いはつきものです。動揺、心配、それは私たちの中間状態につきものです。だから、完璧に信じていないから、まだ不十分だと言うのではなく、信仰とは、無の中で有を信じるのだから、それは不安定である。しかし、その中間状態はキリストによって捕らえられているから、前進的中間状態です。
 もし反対に、何の疑いもなく、動揺もなく、安心だけというなら、それは天国の完成状態であって、信仰ではありません。だから「私たちは到達したところにしたがって進もう」(ピリピ3:16)。「主よ、信じます、信仰なきわれを助けたまえ」であります。
 こういう信仰のよい点は、決して閉じられていない、言ってみれば、決まってしまっていない、可能性があることです。「君は可能性がある」、まだ決まっていないで、中間状態にあるから。君はまだつかんでいないから、将来が開かれている。神さまも、また決定していないのです。そうでなければ、祈ることは無意味になります。
 あのヒゼキヤ王が病の時(列王下20:1以下)、預言者イザヤが、「あなたは死にます。遺言を書きなさい」と言ったのに、ヒゼキヤは、「ああ主よ、わたしが真実と真心をもって、あなたの前を歩み、あなたの目にかなうことを行ったのを思い出してください」と祈ったら、イザヤがまだ中庭を出ないうちに、ヒゼキヤの命を十五年増すと言われました。神も、決定した答えをだしていないのです。あなたの神は小さすぎます。
 だから希望があるのです。だから中間状態はよいのです。その中間状態は、中途半端ではありません。その中間状態で、私たちはイエス・キリストの御手に捕らえられているのです。イエス・キリストは、あなたの中間状態と共に歩まれるお方です。「イエス・キリストの道」です、あなたのその中間状態を引き受け、それと共に歩まれるキリスト。途上のキリスト論です。
 クリスマスには幼児キリストを祝います。その幼児キリストは、少年キリストになり、青年キリストになります。そして成人したキリストは、私たちは十字架の上に見ます。それは完成したキリストではありません。。いわば不完全なキリストです。見捨てられたキリストです。しかし、見捨てられたキリストは、見捨てられた者と共に歩むのです。未完成の者と共に歩むキリストです。
 信仰とは、ある完成した状態でなく、未完成の中で生じる出来事ではないでしょうか。その未完成の中に、共に歩むキリストを見いだすのが信仰ではないでしょうか。途中信仰こそ、真の信仰ではないでしょうか。まだ見ていないものを真とする信仰、未完成の中に完成を信じる信仰です。
 信仰とは何ですか、「主よ、信じます。信仰なきわれを助けたまえ」。「信じます」という信仰は偽りではありません。確かなものです。しかし、「中間状態」です、「信仰なきわれ」も確かです。「信じます」という瞬間、「信仰なきわれ」がでてくることも確かです。
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