11月30日(日)「ザカリアの信仰」説教要旨
ルカ1:5-23

  クリスマス前の4週間を待降節(アドヴェント)と言います。それは信仰の「待つ」姿勢を示しています。
  ルカ福音書によると、待っている人がいました。ザカリアとエリザベツの老夫婦とマリアという女子青年です。この2組は、対照的です。片方老人です、もう一方は青年です。老人は子供もなく年を取って行きました。しかも祭司という、よい家柄の宗教的仕事についていました。マリアは田舎の素朴な何ということもなもない普通の青年でした。
  二人とも実は、本当に「待つ」ていたわけではありません。ザカリアは、もう半分希望を失いかけていたのですし、マリアの方は、希望どころか、何も待っていないし、天使の訪れにびっくりし、何事が起こったのかとあわてています。実は「待つ」ことは、誰にでもできることですが、またなかなかできないとも言えます。「待ちくたびれる」ことも、「もう待ちきれない」ということもあります。 

  ザカリアは「アビアの組の祭司」、妻は「アロン家の娘」、とても家柄のよい、身分の高い人でした。そればかりでなく、「ふたりとも、神の前に正しい人で、主の戒めと定めを落ち度なく行っていた」。 人格的にも信仰の点からも申し分のない人でありました。 つまりこの世的見地から見れば、「何一つ不足ない」人でした。この点、田舎娘のマリアとは違います。
  しかし、立派で身分高い人が、幸せとは限りません。いやむしろ、そういう人に限って、陰に言うに言われない苦しみがあるものです。「ところがエリザベツは不妊の女で、彼らには子がなく、そしてふたりとも年老いていた」。
  彼らの不幸は、二つ、子供もいないことと、年老いていたことです。当時は今と違って、子供のないことは、「恥じ」とされていました。この二つとも、自然の問題で、一人一人の心掛けとは関係ありません。私たちには、生まれた家が貧乏だとか、生まれつき病身だとか、人間の心掛けではどうにもならない、自然的欠け、不幸というものがあります。この自然的不幸や欠けと、「待つ」ことは、重要な関係があるのです。 
  今、彼は祭司として祈りの仕事をしていました。それは、個人的な祈りではありません。皆を代表して、神殿の香壇ところで、公の祈りをしていたのです。しかし、公の祈りと共に、個人的な祈りがあります。この祭司ザカリアにもありました。それは子供がほしいということでした。けれども神さまには、祈りをする側の人間ではなく、聞く側の神さまには、公的祈りとか私的祈りの区別はありません。神さまとは、そういう人間社会の区別をこえていらしゃるのです。
  「すると御使いが現れて、香壇の右に立った」。 一体、天使とは何でしょうか。お伽噺や童話に出てくるものでしょうか、ティリッヒという神学者は、「天使とは、人間の不可能性のところに現れる神の可能性である」と言いました。私には、これがよく分かります。私たちは人間的不可能性をもっています。いくら祈っても駄目だと、もう祈りもやめてしまうこともあります。「神が祈りを聞きたもう時、人間の側には何もない仕方で聞かれる」とカルヴァンは言いました。
  祈りは、忘れたころに聞かれる。待降節とは、天使があなたの右に立つことです。「待つ」ことを通して、救い主にではないけれども、救い主の降誕を告げる天使に出会うことです。それが待降節です。
  その天使は言います、「ザカリアよ、あなたの祈りが聞き入れられたのだ」。 するとザカリアは御使いに言いました。「どうしてそんな事が、私に分かるでしょうか。分かるでしょうかは老人ですし、妻も歳をとっています」。
  祈りが聞かれているのに、私たちにはそれが理解できないことがあります。それは、聞かれる時、あまりにも想像を絶しているからです。
  エペソ人への手紙に、「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちが求め、また思うこところに一切を、はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように」(3:20) とあります。神を私たちは、考えているのです。「神はこのくらい」、それは私の背丈より少し高い位の所です。それ以上は考えられないのです。「あなたの神は小さすぎます」。
  「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしにになり、この事が起こる日まで、あなたはものが言えなくなる」。 それが神の答えです。それは「沈黙」です。
  私たちは怒る時、考える時沈黙します。そういう沈黙は、私が主体でする沈黙です。しかし、ここにある「沈黙」は、神からくる沈黙です。私たちは、絶望して、あるいはやつけられてぐうの音も出ないことがあります。ベイントン師は病気がどうしあるか、「それは時々上を向くためですよ」と言いました。黙って、上を見る沈黙があります。それは神から来る高貴な沈黙です。しかし、よくある、私たちもたまたま経験する沈黙です。沈黙するのでなく、沈黙させられるのです。
  ただ忘れないでください、その沈黙には日限があります。「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」、「この事が起こる日まで」です。つまりぐうの音も出ない時、徹底的に打ちのめされた時、それは沈黙の時であると共に、「神の言葉が成就する時」でもあります。ぐうの音と神の言葉の成就の中間にあるのが、この沈黙、高貴な沈黙です。
  待降節とは、この高貴な沈黙を教える時ではないでしょうか。この沈黙は、「ぐうの音も出ない」から、あわてふためく沈黙となることもあります。動揺し、心配し、不安な沈黙となることあります。しかし、待降節は教えます。「あわててはいけない、それは起こるべくして起こったことだ」と、「待ちなさい」。心配・動揺を「待ち」に変える時、不安な沈黙は必ず高貴な沈黙に変わるでしょう。 「汝立ち返りて静かにせば救いを得、穏やかにしてより頼まば力をうべし」(イザヤ30:15)。