12月7日(日)「マリアの信仰」説教要旨
 ルカ1:26-38

  御使がマリアのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

  この前は、希望を失いかけていた老祭司が、希望へ導かれた話でした。今日のマリアは、全くそういう前提は一切ありません。前のが絶望からの救いとすれば、今日のは無前提の救いです。
  「六カ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた」。
  ガリラヤは、ヘブル語で「ガリル」、「辺境の地」を意味します。ナザレも旧約聖書に出てこない、とるに足りない町で、「ナザレから、何の良いものが出てこようか」と言われていました(ヨハネ1:46)。
  そのナザレのマリア、しかし、初めは「一処女」とだけで、名前も記されていません。そして不思議なことに、聖書ではクリスマスの中心人物マリアについて、何一つ記していません。頭の良い女性であるとか、性格はどうであるとか、家柄は何か、それは一切分かりません。ザカリアの場合は、失望の中の希望を表しますが。マリアの場合、全くそういうものがありません。
  そもそもマリアは、大きな希望などもったこともなかったでしょう。つまり無前提の救いです。私が牧師になろうと思ったのは中学三年、まだ教会もそれほど真剣に行っていなかった時です。それがどうして洗礼や教会を飛び越えて、牧師になろうと思ったのでしょう。全くよく分かりません。天から降ってきたとしか言いようのない、全くの無前提です。世界には神様しか分からないことがあります。

  今ここで、行われようとしている、神の御業にとっては、マリアが自信がないとか、ナザレが田舎の町とか、そいうことは問題ではないのです。私たち一番気になるようなこと、人間の資質、性質、土地柄は、聖書の福音にとって、あまりたいしたことではないのです。心配しなくてよいことなのです。
  ここでも、まず出てくるのは、天使です、マリアではありません。天使とは、「人間の不可能性にでてくる、神の可能性です」。大切なのは、神が事を行われる、そのことにほかなりません。 一言で言えば「恵み」ということにつきます。「あなたは恵みを見いだしたのです」。
  恵みとは外でもなく、「主があなたと共におられる」、そのことです。「全能の神が、罪深いマリアと共に」。これがすべての先にあるのです。忘れてはいけません。あなたの良い、あるいは気になっている、悪い性質が初めにあるのではありません。田舎町ナザレが先にあるのではありません。希望のない異邦人のガリラヤが、真っ先にあるのではありません。恵みが、「神があなたと共に」が真っ先にあるのです。

  この第一のことが、第一になっていない時、私たちは、自信のない女子青年マリアと同じように、「ひどく胸騒ぎがし、戸惑いをおぼえる」でしょう。
  しかし、安心してください。クリスマスは、私たちを脅かす日ではありません。御使いは、この当惑しているマリアに言いました。「恐れるな、マリアよ」と。あなたの自信のなさに当惑するな、恵みとは、そのままの姿で、神に受け入れていただけることだ、そのまま神に、すべてをゆだねなさい。あなたの中に、神の子が誕生したのです。
  確かにここには、第一の、神の子の誕生が記されています。しかし、その誕生は、第二、第三と続くはずです。もちろん、その在り方は、第一のそれとは、全く違います。第一の誕生では、真に神の子が肉体を取って現れました。しかし、パウロは言いました、「もはや私が生きているのではありません。キリストが、私の中に生きているのです」(ガラテヤ2:20)と。
  とすれば、第二に、パウロのおなかの中に、霊のキリストが誕生したのです。洗礼を受けるという時、あまり教会にきたこともない人が洗礼を受ける場合があります。しかも、それはよい加減なことではないのです。立派に霊の洗礼を受けているのです。こういうことが、時たまあります。不思議ですね。「あなたはどこからキリストを知ったのですか」と聞くと、「聖霊」と答えます。「ああ処女降誕だ」、そう私は思いました。
  しかし、間違ってはいけません。この第一の、真実の処女降誕がなければ、第二、第三のものはありえません。けれどもこの第一は、第二、第三を生み出してゆきます。「たといキリストがベツレヘムに、何千回生まれても、あなたの中に生まれなければ、それが何になろう」と言う言葉があります。しかし、その反対に、「たといあなたの中に、キリストが何千回うまれても、もしベツレヘムに生まれたのでなかったなら、それが何なろう」という言葉も真理です。第一は、あくまで第一ですが、第二、第三が続くのです。 

  「聖霊があなたに臨み、いと高きお方の力が、あなたをおおうのです」。それ以外ではありません。
  皆さん、ここで起こっていることは、信じがたいことです。しかし、素晴らしいことです。キリストが私の中にいるとは。「聖餐式」、それはキリストが、私たちのおなかに入る出来事の証しにほかなりません。パンという地上の物質は、罪深い私の肉体です。それは、私たちが高くなって、このお方までとどいたのではありません。修養して、偉くなるのでもありません。
  「私たちが、高くなって、神にまで行くことができないために、神が私たちのところまで低く、いわば小さくなられた」(カルヴァン)。私たちが努力して、劣等感を取り除いたわけではありません。「恵みが起こったのです」。「聖霊があなたに臨んだ」のです。

  しかし、こんなに素晴らしい使信を、最初のマリアが、信じられなかったとは? 何としたことでしょう。「どうしてそんなことがありましょう」。最初のマリアに信じ難いことなら、どうして、第二、第三の者たちに、簡単に信じられるでしょうか。
  しかし、「おれはキリストなど、決して信じない」と言っていた人が、教会に来ました。そして今、道を求めています。人間の「信じない」という言葉は、信じない方がよさそうです。なぜならば、聖霊があなたに臨むなら、「神の側には、何一つ不可能ということはありません」から。ここでは逆転が起こるのです、私たちはなぎ倒されなくてはなりません。圧倒的な恵みの力に、ひっくりがえされなくてはならないのです。天使とは、私たちの不可能性のところに、立つ神の可能性にほかなりません。

  マリアは最後に言いました。「私は主のはしためにすぎません。あなたの語られるとうり私になりますように」。もうはしためは、問題でなくなりました。「神の語られるとうり」、そうです神の言葉が大切なのです。その時、自信のない姿、異邦人のガリラヤは問題でなくなります。
  信仰とは、ただ一つ、私を見る、自分にとらわれる不信仰を、神が恵みによって乗り越えられたということなのです。