12月14日(日)「マリアの賛歌」説教要旨
ルカ1:46-55

  「わたしの魂は主をあがめ」、これがマリアの賛歌の初めです。

  「あがめる」とは、原語で「メガリュオー」、これは、「大きくする」意味です。よく「メガトン級」などと言います。「メガ」は「巨大な」という意味です。
  神をあがめるとは、神を巨大に大きくすることにほかなりません。しかもマリアが、まず口を開いて言うことは、「神」です。普通の宗教では、真っ先に自分と御利益が来ます。しかし、主の祈りで「願わくは御名をあがめさせたまえ」と、聖書ではいつも神が先です。なぜなら、あなたが神を作ったのでなく、全能の神があなたを造ったからです。

  あるキリスト教の本屋で『あなたの神は小さすぎます』という本を見ました。今日私たち大部分の問題は、神が小さいことです。悪魔は二つのレンズをもっていると言われます。一つは凸レンズ、もう一つは凹レンズです。悪魔は神さまに凹レンズをあて、神は実際よりも小さいよと言います。そしてあなたの心配事に凸レンズをあてます。それは実際以上に大きく見えます。「あなたの神は小さすぎませんか」。それは悪魔の業です。

  「わたしの霊は救い主なる神を喜びたたえます」、次にマリアはこう歌います。 

  ここで「喜びたたえる」とは、エンジョイすることです。ウエストミンスター大教理問答の第一問に、「人生の目的は何ですか」、「人生の主たる最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶ(エンジョイする)ことです」とあります。
  私たちは、本当に神をエンジョイできるでしょうか。趣味をエンジョイしたり、休日行楽地をエンジョイすることはあります。しかし、その源、すべてのものの根源にある神をエンジョイできますか。
  「エンジョイ」という時、神は近いのです。遠くにいてはエンジョイできません。デズニーランドをエンジョイするには、そこに行かなくてはなりません。するとエンジョイできない時、「あなたの神は遠すぎます」と言えないでしょうか。
  私たちはみな、神を遠くに考えています。神は確かに「天にまします」と言います。しかし、今救い主キリストにおいて、クリスマスにあって、神は馬小屋に生まれ、私たちの最も近くにおられるのです。
  カール・バルトは言っています、
「悔い改めとは、私たちが通常見落としている、最も近くにおられる方への立ち返り、私たちが常に会い得ない生の中心への立ち返りです。私たちにとって常にあまりにも高くあまりにも困難な、最も単純なものへの立ち返りです。神は、私たちの最も近くにおられるものであり、神は私たちの中心であります。神は、単純なものであります。神がいましたもうーこのことは、ほかのすべてのことより、もっと自然で、単純で、自明なことです」。

  「私たちは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17:28)のです。悔い改めとは、その私の最も近くにおられるお方、私の中心におられるお方に気づくことではないでしょうか。そのようにあなたは、神を近くにエンジョイできますか。

  マリアが、そのように神をエンジョイできたのは、「この卑しいはしためをさえ、心にかけ、力ある方が、大きなことをしてくださった」からです。
  しかし、「この卑しいはしため」、まず「はしため」とは、「奴隷女」のことです。
  「いやしさ」も本来のギリシア語では、悪い意味でした。しかし、聖書では、それを良い意味に変えました。信仰的「謙遜」の意味に。普通言葉は、よい意味から悪い意味に変わることが多いのです。「女中」、「貴様」という言葉がそうです。しかし、神は反対にいやしいものをよいものに変えます。神は「いやしいもの」を、よいものに変えてくださったのです。

  クリスマスは神が馬小屋に生まれた。そんなところに生まれる人がいるでしょうか。神自身が、「いやしい僕」になられたのです。それがクリスマスです。神が馬小屋に生まれた、その時、栄光が馬小屋に輝きました。このように信仰とは悪いものを良いものに変えることです。病気は悪いことです。しかし、パウロは、それを恵みの場に変えました(Ⅱコリント12:9)。神は「いやしいはしため」を、代々の人びとが「幸いな女」というように変えてくださったのです。
  小さいは→大きいへ、遠いは→近いへ、悪いは→良いへ変えること、それがクリスマスの使信にほかなりません。
  「清い者には、すべてのものが清い」という聖書の言葉があります(テトス1:15)。汚れた者は、清いものまで汚してしまいます。しかし、清い人は、汚れたものまで清くするのです。それはメガトン級のお方が、私に大きいことをしてくださったのです。つまり、この信仰は、ただ私たちの頭や心の中だけではなく、事実として歴史の中に実現するものなのです。

  「主は、み腕をもって力をふるい、心の思いのおごる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者をよいもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。それは歴史の現実です。また私たち個人の生活の現実でもあります。