12月21日(日)「クリスマスの意味」説教要旨
マタイ1:18-24

   クリスマスには、次のような意味があります。この日は、一年中で一番夜の長い日です。一番暗い日です。そしてそれから少しずつ、昼が長くなってきます。
  そのように、全く暗いこの日、それは神の子の誕生にふさわしい日だったのです。今日の暗さを考えてください、これ以上もっと暗くなるのだったらやりきれないでしょう。しかし、これが暗さの頂点で、これから少しずつ明るくなるのでしたら、耐えやすいでしょう。クリスマスとは、そういう日なのです。

  私が北海道であった宣教師の教派は、クリスマスを祝いませんでした。青年たちが不満で、クリスマスを祝おうというと、宣教師は言いました、「私たちにとって、毎日がクリスマスなのです」。そうです、確かに「キリストがベツレヘムに何千回生まれても、もし私たちの心に生まれなければ、それが何になるでしょう」。
  このことの真理をわきまえた上で、私はやはりクリスマスを祝います。なぜなら、もう一つの言葉があるのです。「キリストが私たちの心に何千回生まれても、もしベツレヘムに生まれなければそれが何になろう」。救い主イエス・キリストは、抽象的原理でなく、具体的な人でなくてはなりません。そうでないと私たちの救いも抽象的になるからです。「心に生まれる」と「ベツレヘムに生まれる」、この二つが一つにならなくてはならないのです。

  聖書は、イエス・キリストの誕生ついて次のように記しています、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名は、インマヌエルと呼ばれる。これは『神われらと共にいます』という意味である」。

  「神われらと共に」。この事実はクリスマスで明かになりましたが、永遠の昔からあることなのです、しかも、クリスチャンだけではなく、すべての人における出来事なのです。
  バルトの神学を学んで、一番感銘を受けたことは、次のことです。神は永遠の昔にイエス・キリストにおいて、「インマヌエル、神われらと共に」を決定した(神の愛)。「神われらと共に」は、存在としては、信仰のあるなしにかかわらず、すべての人にあてははまる事です。ただそのことを知らない人がいるだけです。

  キリスト教は、その意味で普遍的宗教です。信ずれば救われるのですが、信じなくても、あなたには「神われらと共に」があるのです。あなたはそのことを知らないだけなのです。クリスマスは、このこと知らせる時なのです。難しく言えば、存在としては、あなたはまだ信じていなくても、この「インマヌエル神われらと共に」にあるのです。認識としてはまだですが、それでも救われているのです。
  バルトは、信仰者と未信者をはっきりと分けてはいけない。存在としてはすべての人がキリスト者なのだから、したがって伝道とは、まだ知らない人に教えてあげることではない。すでに存在としてあるものを、「あなた救われているのですよ」と告げるだけだと言っております。この真理は、私を徹底的に変えました。それ以来、私は何事が起こっても、「神われらと共に」の外では起らないことを知って、確信をもっていることができます。ですからクリスマスは、「インマヌエル」の誕生日なのです。


  しかし、そのためには、もう一つ、
「マリアは男の子を生むであろう。その名をイエスと名づけなさい。イエスは自分の民をそのもろもろの罪から救うものとなるからである」。

  「罪」を知らなくてはなりません。椎名麟三というクリスチャンの小説家はこう言いました。「汝の手が罪を犯すなら、切ってすてよ」。ある人が完璧になろうとして、すべてを捨て去り、切り取った、そしてどこも悪いところのない完全な人間となっ出てきた。しかし、すべてを捨て去って、骸骨だけの完璧にきれいな人間は、「罪」という字にそっくりだったと。
  罪とは私たちの完璧性、潔癖症にもあります。私たち人間の自己完結、自己義認、己を正しとする心にもあります。罪のない方が、罪とされた時初めて、私たちは自分の罪が分かります。地獄は「正しさで舗装されている」(ウエスレイ)。「罪がない、私は正しい」というところに、あなたの最大の罪があります。

  もっと日常的な罪経験があります。私は、あるいやな人をお義理で病気見舞いに行く時、平気で心と反対に、「早くよくなってください、祈っています」と言うことがあります。本当に誰にでもある罪経験です。
  しかし、罪という時、もう一つ人類の構造的な罪があります。私はそのことを、原子物理学者ハイゼンベルクの『部分と全体』という本で知りました。原子爆弾ができた時の物理学者の苦悩、そこに学者としての良心と、政治との葛藤があります。彼にとって「部分」とは、この世の科学や政治でしょう。しかし、それらを結ぶ「中心的秩序(神)」のあることを、彼は信じています。つまり「全体」を結ぶものです。
  今このような構造的巨大な罪があるとすれば、そこには、それよりももっと巨大な神の世界の「ゆるし」を必要とします。「インマヌエル、神われらと共に」、それは神のこの巨大なゆるしを表すのではないでしょうか。クリスマスに生まれた、みどりごは十字架にかかります。
「マリアは男の子を生むであろう。その名をイエスと名づけなさい。イエスは自分の民をそのもろもろの罪から救うものとなるからである」。