|
|
|
|
|
|
|
|
12月28日(日)「最後の審判」説教要旨
黙示録 1::17-18
  聖書の最後にあるヨハネ黙示録には、「最後の審判」が記されています。それは何か恐ろしいもののような印象を受けます。
 しかし、そこでは「獣」(ローマ帝国)が、キリスト者を迫害した大帝国が滅びると言っているのです。その最後には、「わたしはまた新しい天と新しい地を見た。見よ、神の幕屋が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙をぬぐい取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」 (黙示録22:17-20)
と記されています。
 つまり、審判とは、悪いものが滅ぼされ、真実な者が救われるという、真の最終的救いの喜びあふれる時なのです。恐ろしい時ではありません。
 しかし、国家だけでなく、個人的なさばきもあります。ローマ書9-11章には、さばきの問題が記されています。その中には、「神がある者を滅びに、ある者を救いに選ばれたような言葉」が見受けられます。
 けれども、最後の11章は、こう結ばれています、
「そこでわたしは問う、彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか。断じてそうではない。かえって、彼ら[ユダヤ人]の罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」 (11:11-12)。
 「福音について言えば、彼ら[ユダヤ人]は、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられた者である。あなたがた[異邦人]が、かっては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それはあなたがたの受けた憐れみによって、彼ら自身も今憐れみを受けるためである。  すなわち神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識の富は、そのさばきは極めがたく、その道ははかりがたい、誰が主の心を知っていたか、誰が主の計画にあずかったか。また誰がまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。万物は神からいで、神によってなり、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」 (11:28-36)。
ここには滅びと救いの弁証法のようなものが描かれています。さばきは、しかく単純なものではありません。さばきを通して、かえって神の救いの不思議な御業が現れるのです。ちょうど医者が手術するのは、病人を殺すためではなく、かえって生かすためであるのと似ています。神のさばきは、救いの反面でさえあるのです。
 アウグスチヌスは、神のさばきは一部はこの世で、しかし、残りは神の最後の審判で行われるといっています。もしこの世で何もさばかれないなら、悪がはびこり、善人は絶望するでしょう。また反対に、全部この世でさばかれるなら、善と悪とは、取引か損得勘定になるでしょう。人びとは、よい報いを受けるためにだけ、善い行為をするなら、それは取引や商売と同じだからです。
 しかし、Ⅰペテロ3:18-21にこうあります。
「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なる方であるのに、不義なる人びとのために死なれた。ただし肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。  こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下ってゆき、宣べ伝えることをされた」。個人的審判があっても、ついにキリストはその地獄にまで下ってゆき、そこでも宣教されたのです。地獄もまた救いの場なのです。「罪を憎んで人を憎まず」と言います。そのことも聖書にあります。「それぞれの仕事は、はっきりと分かってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明かにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすのである[最後の審判]。  もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失[さばき]を被るであろう。しかし、彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(Ⅰコリント2:13-15)。
 これは、罪と人を分離する神のさばきではないでしょうか。すなわち「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」。このことが成就するのが最後の審判です。あなたの滅びとあなたの救いを一身に受けたお方によって最後の審判がなされるのです。私たちは、罪を恐れなくてよいでしょうか。同時に、救いを期待し、喜ばなくてよいでしょうか。
 「わたしは彼を見た時、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、恐れるな、わたしは初めであり、終わりであり、また生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして死と黄泉のかぎを持っている」。
 死と黄泉のかぎを持っているお方、それは私たちのために十字架にかかり、「父よ、彼らをゆるしてやってください、そのやっていることが分からないのですから」
と祈られた主、その方が、最後のさばき主なのです。
 神は永遠の昔に、イエス・キリストにおいて、「インマヌエル、神われらと共に」を決断した、それはすべての人にあてはまる、それがバルトの二重予定説です。つまりこの一人の方に、永遠の滅びがある、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、イエス・キリストは、永遠の滅びを身に受け、同時にそれは救いの代表であったのです。最後の審判は、この二重の滅びと救いを担うお方イエス・キリストがなさる業です。自ら十字架で、全人類の滅びを引き受けられるお方が、ほかでもなく審判者なのです。そこで救いとさばきが一つになっているのです。
| |